まず,福祉を国家が支えることが経済全体に及ぼす良い効果としては,リスク・シェアリングがあげられます。我が国の民法においては,扶養義務は,子世代に対してのみならず,直系の親世代にも及びます。現役世代は子どもを育てるだけでなく,引退した親の面倒も見る。これは,我が国において,道徳ではなく,成人した子,特に世帯主の法的義務です。したがって,国民健康保険や介護保健がなければ,各家庭がそれぞれ,貯蓄したり,物凄く掛け金の高い生命保険に入ったりして親や自分の病気,親の介護に供えなければなりません。大黒柱に何かがあっても良いように,必要な額ぎりぎりではなく,相当な余裕を持って蓄えるか,やたらに高価な生命保険を買うことになるでしょう。一方,現役世代が皆でお金を出し合い,それぞれに何かがあっても支えられる関係になったらどうでしょうか。現役世代が一斉に病気になることはまず考えにくいとすれば,誰かが大変な時には,その親は別の誰かが支えるというリスク・シェアリングが可能になって,蓄えたり生命保険購入に充てなければならない分はずいぶんと減りそうです。その分,個人消費支出に回せますから,質問者のお考えの通り,経済成長に貢献するでしょう。実際,福祉国家が整う前に高齢化を迎えてしまった中国については,家族福祉が成長を阻害する可能性が指摘されています(Hsu et al. 2018)。

 日本の福祉制度の根幹は左派の政治家が作ったのではなく,戦時中の1938年国民健康保険法,1941年労働者年金保険法に始まり,岸信介政権の1958年国民健康保険法と1959年国民年金法によって確立しました。根拠法となっている,社会権を定めた日本国憲法第25条も,GHQの憲法草案には入っておらず(アメリカ人は社会権なんて認めないので当たり前ですが),GHQの草案を審議した大日本帝国議会が,帝国の意思として,1919年ドイツ・ライヒ憲法(ワイマール憲法)に倣って追加した条項です。すなわち,福祉国家建設の是非は左翼と右翼との争点とはならず,帝国的,国民的合意だったのです。確かに福祉国家を作らなければ保険料は払わないですみますし,税金も安くなるでしょうが,その代わりに老親妻子(ちなみに民法は義理親の扶養義務も定めています)全ての生活を自分独りで背負わなければなりません。日本における福祉国家は,そういう,子,実親,義理親全てに対しての責任を背負う家父長制的家長たちがリスク・シェアリング同盟を組み,家長の重荷を国家を介して共有するために採択されたのだと思います(Nakabayashi, 2019; 中林, 2022)。

 その上で,我が国において医療や福祉といった産業そのものについて語られるときに,財源負担の側から話が始まるのは,皆医療保険と皆介護保健という世界に冠たる制度が整っており,それゆえに,付加価値(医療従事者および介護従事者の賃金,医療法人および介護法人の利益,医療法人と介護法人が支払っている利子)を左右するサービスの価格が,市場ではなく,国会が承認した点数によって決まっているからです。経済効果を計ろうとすると,現状では,付加価値で計ることになります。そうしますと,皆医療保険も皆介護保険もない米国の医療法人や介護法人が物凄い価格でサービスを提供し,富裕層が金に糸目を付けずにぞれを購入しており,それゆえに付加価値生産性が高い,という話になってしまいます。実際に米国の平均余命が高いならば,それはそれで整合的なのですが,対GDP比で日本よりもはるかに高い医療費を支出しながら平均余命は日本よりだいぶ低いわけです。アメリカの医療は産業の付加価値生産性は高いのですが,国民の平均余命を上げることについては日本の医療に比べて圧倒的に失敗していることになります。

 ということで,付加価値生産性ベースで日米の介護サービスや医療サービスを比較するような議論は,日本の医療や介護の質を高める上で役に立たなそうに思われ,そのような議論がなされないのは,むしろ良いことだと思います。そして,付加価値(カネ)で医療や介護を評価するのはよろしくなさそうだとすれば,どのような評価基準を作っていくのか,を考えなければならないと思います。

 自分が生きてきた半世紀の間にも,医師や看護師はすごく親切になりました。介護職の方々の溌剌とした姿に接すると,お願いしているこちらまで元気が出ます。介護職の方と話すときの高揚感は,例えが適切かどうかは分かりませんが,日本のアパレルが輝いていた時代の服屋の店員さんに服を選んでもらっていた時のそれを上回るものがあります。きっと,往事のアパレルと同様,「人が好き」な人々が介護産業に参入しているのでしょう。ただ,やる気に漲る彼,彼女たちの貢献を付加価値で図ることは,上に述べたように,単価が公定の点数で決まっている以上,意味がありません。

 医療には平均余命という,泣く子も黙る指標があります。介護も,年齢の割に自立的に生活できる人々の高齢者全体に占める比率などの指標は作れるのではないでしょうか。

 一方,医療保険や介護保険や年金保険が,皆保険を通じて住民皆が一括して資金を積み立て,買うサービスであるのに対して,言及されている生活保護はだいぶ,建て付けが異なっています。生活保護とは,本来的には,民法の扶養義務に従い,家族が子どもや引退した親を扶養すべきところ(認定の前に家族に調査が入るのはそのためです),それが家族の稼ぎや年金ではかなわない場合に,憲法25条に基づいて国家が介入して保護するという仕組みなので(1950年生活保護法第1条,4条),評価はもう少し難しそうです。生活保護を受けた家庭の子の世代が親の所得を上回り,こんどは生活保護の原資たる所得税を納められる側に回れば,経済的に成功していると評価できそうではあります。ただ,憲法25条により社会権を保障する我が国の場合,家族の扶養を受けられない人々が国家に保護してもらうことは権利であって,特権でも恩恵でもありません。日頃,隣近所の安全を警察官に守ってもらえることと同様,国民の権利です。丸腰の私たちが,柔道と剣道と警棒と拳銃で武装した警察官,重火器で武装した自衛官に守ってもらうのと同じです。

 そのような事業に経済効果の基準を適用することは,制度の趣旨に馴染まないような気がします。たとえば,通勤するまでに何個所も交番の前を通る私たちは警察官に過保護に守られているから,その保護を減らす方が経済合理的だ,と言われれば,私は違和感を覚えます。表現の自由も国民の権利ですが,これを守るにもお金がかかります。デモ行進が行われるときには,デモ隊のはるか前方に警察官が分厚く配置され,駐停車中の自動車を容赦なく排除してデモ隊のために一車線を空けさせます。後方にも警察官が配置され,自動車がデモ隊を煽らないよう,中央側の車線に移動させます。生活保護を経済合理性の観点から切り詰めようとすることは,「交番は統廃合するから何かあったら110番してね」,「デモ隊の安全確保も人件費かかるから自己責任でよろしく」と言うことに等しいような気がします。実際には,生活保護には子世代を納税者側に成長させる経済効果がありそうですし,警察官による市民の保護も,保護された市民が労働に専念することにより経済を成長させそうですし,言論の自由の保護は思想の自由市場を保護することを通じて,やがてはイノベーションの活性化,引いては経済成長につながりそうです。それらはそれらで,結果的に良いことです。ですが,経済成長は結果として予想されることであって,経済成長を目的とすべきでありません。生活保護は,警察官による生命,財産,言論の自由の保護と同様,一義的には経済成果を実現するためではなく,国民の権利を守るためにあります。それで良いのではないでしょうか。

参考文献

Hsu, Minchung, Pei-Ju Liao and Min Zhao (2018) "Demographic change and long-term growth in China: Past developments and the future challenge of aging," Review of Development Economics, 22(3) 928-952. https://doi.org/10.1111/rode.12405

Nakabayashi, Masaki (2019) "From family security to the welfare state: Path dependency of social security on the difference in legal origins," Economic Modelling, 82, 280-293.

https://doi.org/10.1016/j.econmod.2019.01.011

中林真幸(2022)「家父長制と福祉国家―社会保障の法的経路依存―」,岡崎哲二編,『経済史・経営史研究入門』,有斐閣,3-35.

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