まず議論についてに以前の回答が役に立ちそうなのでおいておきますね。
https://mond.how/ja/topics/mss7jd8v3bff618/n57ow0j4cr60ha1
ご質問の要旨は「批判」と「叩く」の違いではなく批判的意見を「ダサい」「古い人間」「理解力のない人間」と扱うことのようですね。
ご質問の中で大半を占めるのがこの問題です。
これに関しては「役に立つ批判と役に立たない批判(普通、中傷と呼ばれる)」に分けて考えてはいかがでしょうか。
学問は多くのことを「批判的に検討」します。これを「理解力のない人間」と分けていたら今日の学問はないでしょう。
他方、質問者さんは「意見が異なる」という部分に力点をおいて「意見(批判)の中身」に触れていませんね。ここを分けるとしましょう。
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さて、具体例です。以下のような批判が自動車黎明期にあったとすればどうでしょう。
「たしかに自動車は便利だ。馬車より早く、遠くまで移動できる。
しかし自動車は馬車の欠点を引き継いでいる。うるさいことや交通事故がそれだ。
何より、馬車は馬の数に全体数が制限されるが、自動車は部品があればいくらでも作れる。
つまり騒音と交通事故が今よりはるかに増えるというのが問題だと言えないだろうか」
万一この批判を「古い人間、理解力のない」と語る人がいたとすれば、大いに問題でしょう。
この批判には具体的な問題点が提示されていて、本来それは改善すべきものです。
こうした批判は自動車を作らない人はもちろん、自動車を作る人も大いに考えたことでしょう。
だから現在では徹底した交通事故対策、たとえば事故時に自動車側が壊れて歩行者への衝撃を和らげる技術、また前方の障害物の探知+自動ブレーキなどが作られています。
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他方、”似ても焼いても食えない批判”、普通中傷と呼ばれるものやそもそも中身がない批判もあります。
先述の自動車の例に習うならこんな感じでしょうか。
「自動車に乗るのは馬鹿ばかりだ。車なら馬車があるじゃないか」
「自動車はいかにも操作が複雑だ(黎明期のマニュアル操作は特に)。こんなものに乗るやつの気がしれないね」
適当に書き出すとどうやら質問者さんの言う批判への冷笑的態度に似た質問は中身のない批判になるようですね。
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まとめましょう。質問者さんは
一方が一方を、あるいは意見を異にする互いが揶揄冷笑やレッテル貼りの応酬に終始し、ひたすら味方内で(略)
などと分断を深める方向にばかり意見をぶつけ合っていて、本当に良いのでしょうか?
と現状を嘆いてらっしゃいますが、もちろんそれは良くありません。
そして同じようにくだらない批判(中傷)もまた存在します。
なのでここで考えるべきは「批判にどう対応するべきか」ではなく、
「有益な批判とはなにか」や「有益な対応とはなにか」ではないでしょうか。
とはいえこの部分の答えはすでに私が書いていますね。
有益な意見とは問題を具体的に指摘するもので(車はうるさい、交通事故を起こす)、有益な対応というのは自動ブレーキをつけたり車の構造を変えることで交通事故の被害や発生を抑えることです。
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更に、質問者さんの状況を改めてみるとある集団内で
意見を異にする互いが揶揄冷笑やレッテル貼りの応酬に終始し
しているそうですね。こういう事例は私もよく目にしますが、この前段階に「無益な批判」があるというよりは、こうした状況は冷笑したいがために無益な批判をわざわざ探してくるというものがあります。
なぜそんなことをするかと言われれば、真っ当な批判を冷笑するのは困難だからです。
それよりは「与し易い」ずさんな批判を冷笑する方が「楽」です。
この行動の問題点は言うまでもなくなんの利益もないことです。
なんなら質問者さんが言うように
とりわけ大人同士がこのような分断や対立を繰り広げていて、果たして後進や子供たちにネットリテラシー教育をすることができるのでしょうか?
と、有害でさえありますね。
他方、ここで私が「それは悪いことですね」というのもあまり意味がありません。
すでに質問者さんがご指定の通り、「揶揄やレッテル貼りが」あとを絶たないほど連続していて、そうした行為が継続しているのを質問者さんもご存知だからです。
ですから、以下の質問にはこう答えます。
自分の子供がネットで誹謗中傷や意見の対立によって被害者、あるいは加害者の立場にたって相談されたとき、なんとアドバイスするつもりなのか?
「話し合う場所を選びなさい。真剣な意見を言う人、他人を傷つけない場所で話しなさい。
逆に他人を傷つけるのを楽しむ人、批判を言い合う”ガス抜き”として機能している場所、特に中傷を目的とする場から離れなさい」
良い悪いという話のあとに”具体的な解決策”を考える必要があるのは、すでに書いた批判への対応の通りです。
私達もまた交通事故を避ける仕組みを作った技術者に習う必要があります。考えたら行動につなげるのが良いでしょう。
さて、では世の中傷を好む人を善良な人に変えることができるでしょうか? Noです。
ではあなたが声をあげればたちまち人々は変わるでしょうか? Noです。
事実致命的な被害-たとえば中傷による自殺-が起きても、それは変わらないでしょうか? Yesです。基本的に変わりません。中傷による自殺は何度か起きていますが、なくなっていません。
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それゆえ、具体的な対策は「場所を選ぶこと」になってしまいます。
すでに中傷と冷笑が中心となった場を変えるのは困難です。
他方、真っ当な意見と対策が語られる場が突然中傷と冷笑の場になるのも考えられないことです。
質問者さんは後者のコミュニティの方が合っているでしょう。そういう場を選ぶことです。
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テクノロジーと人々の対応、つまり
せっかくテクノロジーの発展により様々な人同士が意見を語り合える社会になったのに、そのテクノロジーに向き合う人間・・・とりわけ大人同士がこのような分断や対立を繰り広げていて、果たして後進や子供たちにネットリテラシー教育をすることができるのでしょうか?
という問題提起は適切ではありません。
テクノロジーは人間を「善く」してくれる訳ではありません。
世界とつながれるということは、世界の誰からも学べるということでもあり、世界の誰とでも喧嘩をできるということです。
多数の人が参加できるということは多数の人が助け合えるということであり、同時の多数の人が誰かをリンチにできるということです。
過去から現在までテクノロジーに限らず人間を「善く」する試みは行われていますが、これは成功していません。
ソクラテスが人間の善について語ったのはだいたい2500年前ですが、今でも人間には悪があり、ソクラテスが想定する善の基準を満たす人間はそう多くありません。
ですから、場所を選ぶ必要があります。
この辺の議論を哲学者のローティもしていますので、こちらも学ばれるのが良いでしょう。
入門書で恐縮ですが。
ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月 (NHKテキスト) https://amzn.asia/d/3ylpskL