「(前略)相互理解を目指すべきなのでしょうか? (後略)突き詰めるのでしょうか?」
おそらく後ろの分も「……すべき」が入る文章なのだと思いますが(前の文が入っているので)、

議論において「……すべき」という文章は推奨されません。

この義務を与える文章はつまるところ行動を制限するものです。

ゼミで行うような議論なら「……した方が良い」と指導教官に直される部分でしょう。私もこの意見です。

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ではその上で「相互理解を目指す方が良いのか」、「突き詰める方が良いのか」、「適切な距離を保つのが良いのか」ですが、次善策としては「相互理解を目指す」のと「適切な距離を保つ」を支持します。

質問者さんは「妥協と協調によって落しどころ」がない場合「どちらかが消え去る」とお考えのようですが、これ自体不思議なことです。議論は新しい意見や見解を生むためにやるのであって、潰しあいをするものではありません。

質問者さんが想定されている「議論」はSNSでしばしば見られるような「論破」の構図ですね。こうした場合はなぜかみなさん勝ち負けを非常に重視します。しかしこれを議論と考えることは私にはできません。

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では私が想定しているような「新しい意見が生まれる議論」は具体的にどういうものでしょう。

プラトンの『ゴルギアス』をご覧になるのが良いでしょう。特にカルリクレスとソクラテスの議論は傍目には二項対立にも見えるものの、最終的にはカルリクレスのもののでもソクラテスのものでもない意見が”議論を通して”現れます。この手法をソクラテスが産婆術と呼んでいるのは周知のことかと思います。

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相互理解、距離を保つのはそもそも議論をしていない状態です。相互理解は議論の大前提であり、距離を保つのは議論が”平行線になって”終わったことを意味しています。潰し合いは論外です。

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それゆえ、ある一つの命題について二項対立の状況にあったなら、ソクラテスを真似てそれぞれお互いの意見を検討してみてはいかがでしょうか。散々に検討して何も変化が起きないというのは普通考えられません。そもそも意見が違う人同士なのですから視点も違うはずです。-議論している二人が実は同一人物で、全く同じ視点しか持たないということはないでしょうから-

それなら互いに検討をすると当然のこととして「自身の意見」にいくらか変更が必要なことがわかるはずです。初期プラトンの対話篇を教師とするなら、この意見の変更が議論における「善いもの」といえるでしょう。ですから、相互理解や距離を保つのは次善策です。それは議論ができなかった時の策ですね。

最善の策は互いの意見を検討し、よりよいものとする、です。

11か月

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トピルツィン/ウンフェルスさんの過去の回答
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