一つ、確認しておくべきことがあります。昔の日本史の教科書ではしばしば誤解を招く説明があったのですが、荘園制は律令国家とは異なる何か、あるいは律令国家を掘り崩す何かでは無く、701年大宝律令と743年墾田永年私財法を根拠法として成立した、律令制の枠組みのなかの仕組みです。701年大宝律令によって、日本国全土の所有権と統治権が天皇に帰属することが定められているところ、天皇が立券によって荘園の設立を認めた場合に所有権を荘園領主に与えるとともに、所有地における行政事務提供の債務も負わせ、行政事務遂行のために必要な財源として、国税相当額を荘園領主が年貢として収取することを認める、それが荘園制です。
実態としては、荘園領主になった天皇家(国家機関としての天皇に対して私人としての天皇家ですね)や藤原家が統治業務を提供するわけではなく、現業は誰かに委任します。委任に当たっては、荘園領主が天皇に変わって業務を委託する補任状(ぶにんじょう)が発行され、補任状には、遂行すべき職務と、その対価としての報酬が記されています。この業務と報酬の組み合わせは職(しき)と呼ばれました。
ということで、荘園制は土地所有と統治業務を細分化して証券化した精緻な体系を持っていたのですが、この精緻な体系は律令を根拠としています。また、荘園制において、実体的には何の公務も提供していない天皇家や藤原家が荘園領主として巨額の所得配分にあずかっていたのも、荘園が律令に基づいていたからです。すなわち、農民や武士が田を開墾したとしても、墾田永年私財法による保護を受けるためには立券が必要で、平民である農民や武士(武士も平民です)に天皇へのコネがあるはずもないので、開発者である農民や武士は開発地を貴族に寄進し、寄進を受けた貴族が立券を申請して認められ、荘園領主となるという構造があったのです。元の開発者は、自分が寄進してやった相手である荘園領主に、荘園現地を管理する荘官に補任してもらい、荘官職に付帯するささやかな定額地代を収取する権利を得ます。現地管理に当たる荘官の職称としては地頭、荘官、下司(げし)、公文(くもん)などがありました。ということで、荘園制、特に荘園制における所得分配には律令制が強く効いていたということを確認しておきたいと思います。荘園制は律令制の日本的現実化であって、律令制とは別の何物かではない、ということです。
その上で、中国を真似することがまっとうな判断だったのか、という御質問に戻りたいと思います。今の日本は何から何までアメリカを真似しようとします。アメリカの一人当たりGDPは日本のそれの1.2~1.3倍あるからです。資本も労働も投入して、それでも追いつけない要因があるとすればおそらく制度しかありませんから、20%先を走り続けるアメリカの制度を真似ることにはそれなりに理にかなっています。明治維新後、日本はドイツを真似して憲法を作りました。その頃のドイツの一人当たりGDPは日本の2倍です。一人当たりGDP1.2倍が真似する理由になるなら、2倍はなおさらです。で、日中比較です。中国の8世紀のGDPはまだ解明されていないのですが、9世紀以降の推定値から察するに、7~8世紀の中国の一人当たりGDPは日本の2倍以上だったと思われます。つまり、天皇家や藤原家が中国の律令を移植しようとしたことは、伊藤博文が一人当たりGDP2倍のドイツの憲法を移植したことと似たようなもので、変な判断であったとは思いません。
日本の一人当たりGDPが中国を史上初めて追い越すのは18世紀前半、徳川吉宗の頃です。中国の背中が見えていた1685年、江戸幕府は天文方を設置します。目的は、冲方丁『天地明察』でよく知られているように、独自の基礎研究により、中国のコピーであった暦を廃止し、日本の暦を作ることにありました。この天文方が後の東京大学および国立天文台です。吉宗は天文方を洋学研究機関として拡充します。これがさらに蛮書和解御用、開成学校、東京大学へと拡充されていくことになります。なので、振り返ってみると、中国が圧倒的に優れていた頃には中国に学び、中国を追い越した辺りで次の目標である西洋に学ぶ方向に踏み出しており、時宜にかなった決断をしてきたように思います。
一方、独自の国作りはできなかったのか、と尋ねたくなる気持ちもまた、日本人として理解できます。実際、日本の一人当たりGDPが中国を追い越した18世紀には、吉宗が洋学研究ドライブをかけた一方、儒学でも洋学でもなく日本の古典に学ぶ思想を打ち立てようとした本居宣長も活躍していました。
しかし、宣長がその解釈を通じて日本の原点を探ろうとした『古事記』編纂は、律令国家完成期の8世紀の事業です。中国の国制を丸コピーする一方で、漢字を使って日本の物語、日本の詩歌を書き残す『古事記』編纂事業と『万葉集』編纂事業も推し進めたわけです。『古事記』や『万葉集』が後のひらがな、かたかなになり、私たちは古代から現代に至るまで、日本語で書かれた文学を日本語で楽しむことができます。中国を丸コピーし、中国文化に日本文化が飲み込まれてしまう危機が現実にあった時期に、口伝でしかなかった日本語の物語や詩歌を『古事記』と『万葉集』に文字として残したことは、真に英断であったと思います。中国を丸コピーする中でアイデンティティの危機に瀕したからこそ、日本語を書き表すことを思いついたのではないかと想像しています。
質問者様と同じように、日本人なんだから日本の法令を日本語で書けばいいじゃねーか、と思い続けた人々はいて、その代表格が武士です。彼らが、律令ではなく、日本の慣習法を日本語で書いた最初の法令が、1232年貞永式目(御成敗式目)でした。以後、武家政権の拡大とともに、公家領において有効であった律令(荘園法)の施行区域は狭まり、荘園制が解体される戦国期に、日本は純日本化されました。ただ、そこで使われている日本語、すなわち、概念は漢字で書き、感情は大和言葉で書く漢字仮名交じり文は、8世紀に起源を持ちます。
ついでに書きますと、中国丸コピーの傍ら、『古事記』と『万葉集』で書き言葉としての日本語も作ろうとしたことは、中国文化との付き合い方としても望ましかったと思います。中国に影響を受け続けた強国としては、日本の他に韓国とベトナムがありますが、韓国とベトナムは文字通り、中国文化を丸呑みする道を選びました。この、中国に近づき過ぎた歴史が、逆に反中感情を育み、ベトナムの漢字廃止や、韓国の漢字ほぼ廃止に至ったのではないかと思います。翻って、日本の場合、日本語を捨てなかったことによって、中国から独立した文化圏として、中国文化に敬意を以て接する余裕を保つことができました。日本と中国は何度か戦争をしましたが、戦争をしたからといって日本人から中国文化に対する敬意が失われたことはありません。たとえば、ラーメンはその一例ですね。中国が日本化されたラーメンを日式として再導入しているように、日本が敬意を以て中国文化を導入し、手を加え、それをまた中国が導入するという好循環が日中にはあります。室町期に日本が中国から導入し、育ててきて、今、数百年ぶりに中国で好まれている緑茶文化も似た例です。そのような好循環を可能にしている条件の一つは、中国と対等に付き合う日本側の余裕で、その余裕は日本人が日本文化を守ってきたことによると思います。で、その原点は、繰り返しますが、8世紀にあります。
なので、御質問に対する答えとしては、7~8世紀の国力に照らして、中国を真似たことは、伊藤博文がドイツを真似たことと同じくらいには妥当であった、中国を真似ると同時に書き言葉としての日本語と日本人としてのアイデンティティの確立も推し進めたので、真似の仕方としては最善であった、ということになりそうです。
https://doi.org/10.1093/ssjj/jyaa023
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2006/thema_03.html
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