鎌倉幕府軍は1221年承久の乱にあたって瞬く間に後鳥羽上皇軍を鎮圧し,京都を制圧しました。モンゴル襲来に当たっても,火器を装備したモンゴル軍相手に弓と刀で応戦し,撃退しました。国防の鎌倉幕府軍はなぜ,強かったのでしょうか。家臣である御家人(ごけにん)たちが忠君愛国の精神に満ち満ちていたからでしょうか。違います。忠君愛国の精神も持っていたでしょうが,そこは強さの源泉ではありません。1185年の源頼朝と朝廷の取り決めにより,鎌倉幕府の御家人については,武士の職(しき)である地頭(じとう)の任免権(補任権)が,従来の荘園領主(天皇家,貴族,寺社など)から鎌倉幕府に移管されました。御家人にとって,鎌倉幕府こそが家族の資産を守ってくれる存在となったのです。当時の武士にとって大切なものは圧倒的に自分の家族で,自分の家族の資産を守ってくれる機関に対して,自分の家族の資産のために命を懸けたのです。これを表す言葉が「一所懸命」ですね。武士とは一義的には自分の家族の所領を守るために命を懸ける者であり,その所領を守ってくれるのが国(幕府)であるので,結果として国のために命を捧げたわけです。そのような,国と武士との関係を,「御恩と奉公」と呼びます。国が所領を守ってくれる(「御恩」)からこそ命を懸けて国に仕える(「奉公」)という意味です。
結果として戦死することはあっても,一義的な目的は家族のためなので,武士が死ぬときには,自らの死が遺された家族の役に立つように周到に用意しました。たとえば,ある武士が,今回の合戦で華々しく討ち死にして我が家の所領を増やそうかな,と考えるとします。その場合,その武士は,同じく出陣する弟に対して,絶対に戦死しないこと,生きて戻って兄が華々しく散ったことを鎌倉幕府に報告するよう、厳命します。また,私たちが,モンゴル襲来の様子を知ることができるのは,戦闘を描いた絵が遺されているからですが,これも,鎌倉幕府に対して自らの命懸けの戦闘を報告するために描かれたものです。
「御恩と奉公」という現実主義は戦国時代になっても変わりませんでした。戦国武将は自分の家紋を染めた旗を装備して闘いました。もちろん,旗は戦闘には邪魔です。しかし,命を懸けるのは直接的には家族のためであって,主君のためではありません。自分がいかに勇猛果敢に闘い,散ったかを,記録に遺してもらう必要があります。そのために自分の家紋の旗を身に付けて闘うのです。その動きを軍目付(いくさめつけ)が記録し,所領を加増する場合の評定の材料にしました。また,敵の将官級を殺せた場合には頭部を切り取って持ち帰りました。人の頭は重いので,当然,戦闘には邪魔です。しかし,繰り返しますが,命を懸けるのは家族のため。命懸けの成果の証拠をしっかりと持ち帰って家族の所領が増えなければ命の懸け損というものです。
これが,鎌倉時代から戦国時代までの武士の,正直ベースな強さの秘密です。鍵は徹頭徹尾,「御恩と奉公」,国が自分の家族の権利を守ってくれるなら身命を賭して闘ってやろうじゃないか,という発想です。中世ヨーロッパの騎士も同じです。
江戸時代,太平の世になると,武士は官僚となり,血で血を洗う戦場で戦い抜く技能の必要度は下がりました。そうなりますと,幕府にとっても,戦闘員としての強さよりも,官僚として秩序を維持する精神の方が大切になります。そこで朱子学が導入され,上意下達,滅私奉公なイデオロギーが作られました。
しかし,そのような頭でっかちな武士道は,飽くまでも太平の世に通用することであって,本当に強い戦闘員が欲しければ,何と言っても「御恩と奉公」です。なぜ新撰組が強かったかといえば,彼らが頭でっかちな机上の武士道で動いていたのではなく,「御恩と奉公」で動いていたからです。
この「御恩と奉公」を,全国民に拡張したシステムが国民国家,nation stateです。国家は全国民の人権を守る。その代わりに武士階級,騎士階級だけでなく,平民も国家に奉公する。ナポレオンの革命軍がその先駆けとなりましたが,全国民を騎士化,武士化するその圧倒的な強さゆえに,この仕組みは他国にも急速に広がりました。
我が国においてこの仕組みを深く理解し,啓蒙に努めたのが福澤諭吉です。『学問のすゝめ』の「一身独立して一国独立する」とはそういう意味です。人民の権利を認めずに平伏させておけば平時には治めやすいであろうが,そんな人民は有事の役に立たない,有事に役に立つ人民とは,平時から国家に人権を守ってもらっている国民だ,というわけです。福澤は例として,普仏戦争の際にナポレオン三世が捕虜になってもなお闘い続けたフランス兵を挙げ,これを,桶狭間にて今川義元軍を撃破した織田信長軍になぞらえています(福沢,1978,31)。
御質問に戻ります。なぜ,nationは強いのか。命知らずの強さを誇った中世武士や中世騎士と国家との間における「御恩と奉公」の関係を,全国民に拡張したからです。目前に起こっている事象に当てはめるならば,民主主義国の場合,「御恩と奉公」の意識が個々の国民に深く浸透しているので,他国の侵攻に対してはとことん闘い抜くということになります。鎌倉武士がモンゴル帝国に立ち向かったのと同じです。
参考文献
石井進(1987)『鎌倉武士の実像 : 合戦と暮しのおきて』,平凡社。
高橋典幸・山田邦明・保谷徹・一ノ瀬俊也(2006)『日本軍事史』,吉川弘文館。
福澤諭吉(1978)『学問のすゝめ』,岩波書店。