財務省や日本銀行に限らず,日本国全体がシステムとして動いており,何かを実現しようとすれば,そのシステムで読み込めるコードで記述しなくてはなりません。加えて,国や地方公共団体の場合,税金を預かって動いているシステムなので,国民に対して統一的な説明のできるコードでなくてはなりません。このコードを読み,書く技能が実定法学で,これは,出身が経済学部であろうと文学部であろうと理学部であろうと,行政官になったならば身につけなくてはなりません。きちんとコードを書けない人が法案を作っても,その法案は国会に出てくる前に,枢密院,内閣法制局に突き返されてしまいます。大日本帝国ならば枢密院書記官が,日本国になってからは内閣法制局が,勅令,政令,法律のひとつひとつについて互換性チェックをしていますので,法学を知らない人が勅令案や政令案や法案を書いても,帝国議会,国会にたどりつけません。官僚で出世している人々は必ずしも法学部出身とは限りませんが,法学部出身ではない人々も,法学の自学自習をされたはずです。ということで,政府であれ日本銀行であれ,支える側の職員に法学は必須です。また,そのための自学自習が可能であることも,法学の素晴らしいところです。目の肥えた司法試験受験生たちに鍛えられてきただけあって,「基本書」と呼ばれる法学の定番教科書は高い水準の自己完結性を実現しています。そして,意外と重要なことですが,そうした良い教科書を書ける前提として,法学者は国語が得意です。彼,彼女たちは,漢字が多くて,一見,読みにくそうに見えるものの,きちんと読めばきちんと分かる文章を書く高い技能を持っています。これはつまり,RやPhythonの英語がそうであるように,ソースコードとしての,きちんと読めば誰にでも分かる日本語を書けるように訓練されているということだと思います。

 さて,指導者を補佐する職員には法学的素養が必須であることを前提として,質問者が言及されている指導者については,着想を法令案に起こす作業は部下に委ねることができるので,多様な背景を持つ人々の活躍が期待できると思います。もちろん,その場合にも,指導者にできることは,その指導者が何を学んできたことと無縁ではありません。過去半世紀のほどの間にこの国の形を変えてきた指導者と言えば,橋本龍太郎元首相(慶大法)と小泉純一郎元首相(慶大経)でしょうか。大蔵省から検査部門を金融庁として切り出してしまえば政府と銀行の癒着を解体することができる,とか,郵貯から財政投融資への預託をやめれば野放図な公共事業を止められる,といった橋本行革の発想は,高度に法技術的なツボを突いていて,いかにも法学部的であるように思います。この時点で橋本,小泉両内閣の行財政改革の技術的な論点は出尽くしていて,これらは橋本元首相の業績です。さすがは,橋本「(総理ではなく)課長補佐」と陰口を叩かれるほどに,位人臣を極めてなお学び続けた元首相だけのことはあると思います。

 一方,橋本元首相が摘出した目的を完遂する政治的な着地点の見つけ方と,それを実現する腕力は小泉元首相ならではですね。もしかすると,法律などの制約条件を取り敢えず所与として傍らに置いておいて,均衡のありそうなところを嗅ぎつけて,そこに向かってぐいぐいと計算しながら邁進する経済学部の教育が役に立ったかもしれません。

 実際,経済理論家のなかには,計算を始める前に,細部の情報を集めて,その情報から直観的に,この辺りに均衡があるかな,と当たりをつけてから計算に着手し,実際に均衡を見つけて,論文を書く小泉元首相のような人々もいます。この作業を繰り返すと,経済が次に辿り着くかもしれない均衡を当てる勘が鍛えられるでしょう。欧米で経済学者が中央銀行総裁に起用される場合は,分析的な技能そのものというよりも(法案作成と同様で,方向性を決めた後のモデル構築と試算は経済学部出身の部下に任せますから),そういう勘を期待されているのではないかと思います。

 植田和男先生については,個人的に,忘れがたい思い出があります。東京大学経済学部の助手試験を受けた際,試験官のなかに植田先生も入っていらっしゃいました。合格させていただいて助手室に出勤するようになったある日,エレベータで植田先生と乗り合わせました。植田先生は「お!」という顔をされ,私に人差し指を向けると,「君っ,面接良かったーっ」と叫ぶように仰いました。狭いエレベータのなかで,大御所に指差されて大声で誉められた若輩の私は,畏れ多くて何も応えることができず,時代劇の下級武士が平伏している時に出しそうな「はっ」とかいうような唸り声を絞り出せただけであったと記憶しています。

 経済史を研究する私が助手面接で話したのは,1世紀半前の長野県諏訪郡の製糸業で起こった生産組織の革新です。そんな大昔のミクロな話を,マクロ金融の大御所に真剣に聴いていただけるとは,当時は,浅はかにも思い至りませんでした。植田先生は,このように,ずっと昔の細かい歴史的事実からも,現在の経済を理解する手がかりを探られる方です。また,当時はまだ紙版しかなかったピンクのFinancial Timesを持ち歩いておられて,ちょっと時間ができると読んでいらっしゃっていました。ああ,俺も視野を広く持とう,と思い,真似してFTを購読することにしました。きっと,古今東西の情報の入力から,次の均衡を探られるのでしょうね。質問者と共に,私も,植田先生が素晴らしい仕事をされることを期待しています。

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中林真幸さんの過去の回答
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