哲学の中で「無」は盛んに論じられています。ただ、最近の分析哲学優勢の中では語られていないように見えるかもしれません。たとえば、古代のディオニュシオス・アレオパギタの思想や、エリウゲナやエックハルトの哲学では「無」がきわめて重要な位置を占めています。「無」や「闇」は、存在を支える根源なわけです。現代の哲学と言っても、20世紀ですが、実存主義の哲学(ハイデガー、サルトル)でも「無」は根本概念で、「無」の顕現を存在の中にどう位置付けるかが基本問題でした。中国でも、老荘思想(老子、荘子)でも「無」は「有」「器」と相補的に位置し、現実的存在者を生成・存在せしめているのが「道」であり、「無」として規定されると考えられていました。インド哲学でも、「無」や「空」は、もっとも根源的なものでした。禅も「無」の思想です。東洋の思想は、「闇」「無」といったものを基本とするので、「無」の方を重視する思想です。ただ、「無」の思想を体系的に広く分かりやすく書いた入門書は少ないのが残念です。森三樹三郎『「無」の思想』講談社新書がありましたが、今新刊で手に入るのでしょうか。根本的な入門書の一つです。大事だと思う人は、東洋的なものに心を寄せる人は、「無」の話が大好きです。私も大好きですが、あまり語りません。言葉と「無」の相性はあまり良くないのと、言葉というのがそもそも「無」ということを語るのが苦手だからと思います。中世スコラ哲学でも、13世紀に「無」を取り入れて、〈認識論的転回〉が起こったと私は考えています。これについては、近刊の『中世哲学入門』で少し書きます。「役に立つかどうか」というのは根源的なことでないことは、昔から語られ続けてきました。「無」は自由な次元であり、重要です。建設的に用いることができれば、「無」こそすべてと言ってよいと思います。人生に目的はない、ということも自由さと可能性を強調しています。

1 year ago

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