水出博雄:まず、私はその「現代史への試み」を知らないですし、太田さんがどのような文脈でこの発言をされたのかわからない為、完全な回答というのは絶対にできないことはご留意ください。
質問者様の文面のみから判断しようとした場合、まず、太田さんの言う内容というのは、所謂理論研究と応用研究みたいな構図に見えます。対して、現代史への試みの方では、無いからこそ広がる余地があるのだ、と言っているように感じます。前者は、価値があるかどうかを先に考えるのではなく、まず何か分からなくても有を作り、それが使えそうであれば後から使えば良い、というように見えますね(人類の歴史だ、というその文については、恐らく前後が分からないと理解できないものではないでしょうか。もしかしたらそこが重要なのかもしれませんが、この文からは類推できませんでした)。以上から、この文だけでは関係性を掴めませんでした。しかし、類似していると感じたことについては非常に良いと思います。その類似点について考察もされているようですので、興味深い内容でした。
そして、無の有意味性についての哲学者ですが、少し難しいです。何故なら、「無」と言っても、色々な使われ方があるからです。私は科学の方面の人間なので、特に絶対無という表現には違和感があります。これは、どのようにして無を作りだそうとしても、本当の意味での無にすることが余りにも難しいからです。しかし、恐らく上記著書では無についてこのような意味合いでは使っていないのでしょう。このようなことは、多くの書物でも多かれ少なかれ起きていると思います。その上で思い浮かぶのは、
パスカル:無とは微妙に違うのですが、無限に対して有限たる人間(微積みたいな話ですが、これを無と捉えることは可能かと)の尊厳を取り扱っていると言えばいいでしょうか。
コヘレトの言葉(伝道者の書):これは人物ではなく、旧約聖書の一つなのですが、冒頭から全て虚しいことを示します。そして、最後に虚しいだけでは終わらせないような構図になっているのですが、こういった内容は特に旧約で多く見られるかと。
キルケゴール:絶望の中から希望を見つけるような内容です。絶望を無というかは意見が分かれると思いますが、ある種似た臭いがします。
などでしょうか。元々、無というようなものは東洋思想の方が多い為、難しいですね。ここからはご自身でも探っていった方が面白いかと思います。