質問中に含まれている「偶然」「運」「支配」という三つの重要なキーワードの意味を明確にしないと、あまり意味のある考えにはならないように感じます。
それらのキーワードに定まった一つの意味があるというのではなく、どのような意味で考えたいかという「決め」の問題です。その「決め」によっては回答はYes/No/どちらとも言えない/無意味など何とでも変化してしまうでしょう。
別の言い方をするなら、質問にどう答えるかによって「偶然」「運」「支配」などがどのような意味であると考えているかが表に出るといえます。
ここまでは特に面白くはない正論です。
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「偶然」を「ランダム」、「運」をよくわからない何か、「支配」は結果に影響を及ぼすこと、くらいのふわっとした意味で考えるとします。
「偶然は、運と呼ばれる何かによって支配されている」という主張でいう偶然は、私にはもはやランダムな事象とは感じられません。だからといって「偶然に見えるけれど、実際のところは運と呼ばれる何かによって支配されている」と言われても、「だからなに?」ということになりそうです。
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それはそれとして、たとえば特に理由なくトラブルが続くと「これは単なる偶然だ」とは思えないことはよくあります。それに対して「自分はこういう運に支配されている」のように考えるのはあまり賢明ではないと思います。「自分は何をやってもこうなる」みたいな感覚に襲われてしまうからです。それよりはむしろ、トラブルが続くことに対して「自分が気付いていない要因があるかもしれない」として身のまわりを点検した方が建設的でしょう。
あるいは逆に、特に理由なく好ましい事象が続いたときに「これは単なる偶然だ」とは思えなくて「自分はこういう幸運の星のもとに生まれている」と考える人がいるかもしれません。そう考えられるのはしあわせともいえますが、それと共に「自分には理由がわかっていないのだから、調子に乗りすぎないように、自分はすごいんだぞと傲慢にならないように」として身のまわりを点検した方が健全でしょう。
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「ギャンブラーの誤謬」という非常に有名な概念があります。簡単にいうとフェアだと考えられるコインを投げているにも関わらず「表がたくさん出たから次は裏が出やすくなるぞ」と考えたり「表がたくさん出たから次も表が出やすいぞ」と考えたりする誤りのことです。
もしもフェアなコインを投げているのであれば、フェアなコインなのですから裏が出やすくなることも、表が出やすいこともありません。そうなったらフェアなコインではないからです。
でも、人間が経験する事象というのは一枚のコイン投げのようにシンプルに考えることは難しいものです(一枚のコイン投げでも十分に複雑ですが)。ですから、自分の経験の全様相を把握することは難しく、何とかして自分が体験した事象に対して必要以上に「意味」や「パターン」を見出しがちですね。
「意味」や「パターン」を見出すのはよくないというのではなく、必要以上に「意味」や「パターン」を見つけ出して、それで自分の行動が過度に支配されるのはよくないという意味です。偶然が運に支配されているかどうかは定義でいくらでも変わりますが、自分の行動は確かに自分の考えに支配されているからです。
そんなふうに思います。
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ギャンブラーの誤謬については「コインで10回表が出た後は裏が出やすいか」という形でこちらの本の第1章で詳しく書きました。
◆数学ガールの秘密ノート/確率の冒険 | 結城浩