歴史からわかることは色々ありますが、印象深いもので言えば「連続性」です。
たとえば、ソロンの改革と呼ばれる「財産政治」です。
これは都市を指揮する将軍職(今で言う大統領とか首相)やその周囲を固める官職をその財産から決めるというものです。
これだけ聞くと「金満政治だ」と多くの人は考えるでしょう-それはつまり現代の我々は「裏金問題」なるものをニュースで見たり、一昔前の人なら田中角栄などのお金を重視した政治を知っているために-。
しかしソロンが重視したのは「身分の解放」だとされています。それ以前、アテナイを支配したのは貴族であり、その身分は世襲でした。この身分を自由にするにはどうすればいいか。
かつての貴族に近い権力者を何によって選ぶべきか、その時に「商売によって稼いでいる人は才能がある可能性が高い。また、戦時において私財を投じることで国家を支えることができる」と、そういう考えから行われた「大胆な政治改革」でした。
世襲制度は親から子に引き継がれるという、仕組みは極めて単純なものです。
だからこそ、その制度に問題が見えても代わりの制度を見つけるのはやはり大変なことです。
これ以降、たとえば古代ローマも「市民権」という部分的に独自の制度を使い、「1票の格差」を作りながらも(平民の票は100人で1票であり、金持ち(騎士階級)は1人で1票)、国家元首である執政官を選挙で選ぶという方式を選びました。財産から票、現代に近づいています。
古代ローマ以降の中世という時代区分では逆に王政が見直され、各地域が王政、そして封土制を採用します。中世史の本が語るように、この時代の王政はこれはこれで効率的に動き、各地で文化を発展させたりもしました。たとえば「カロリング・ルネサンス」のように。
現代から見れば選挙から世襲・王政への変化は「逆行」ですが、その時代にはその時代に必要なものがありました。そうした観点で見ると、世襲制も中世の王達とギリシア・ローマの初期の王達とのそれはやはり大きな違いがあり、制度とはつまり「必要性に応じて発明、ないし改良されるもの」だと痛感します。
後にルネサンス、近代を経て限定的な選挙、その後の普通選挙制が定着していきます。
他方、まるでその揺り戻しのように第二次世界大戦前のイタリアとドイツ、そして現代に至る南米など、あえて独裁制を選ぶ国も現代と言っていい時代区分の中に存在します。
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歴史はある一箇所を切り取ると、不可解で愚かです。現代人の、特に民主主義を採用する国々の人々からすれば、王政も独裁制も理解できないでしょうし、ソロン以降にギリシアで誕生した直接民主主義や古代ローマの間接民主主義(のようなもの)がなぜ持続しなかったのか不思議なことでしょう。
ソロンの改革の中に「私財を投じて国を守れるから、権力者は金持ちであるべき」という考えを見るには、アテナイでは資産家は常にそうして戦場の要衝(騎兵)を担い、そも戦場に持ち込まれる武具はすべて自腹であるという前提を理解しないと話が始まりません-現代で武具が自腹の軍隊はまずお目にかかれません。古代と違う、現代には国家に属する軍隊しかいません。それゆえに、見えてこない-。
つまりは、歴史は部分で見ると不可解で愚かなのに対し、歴史を「流れ」で見るのなら、基本的にいつの時代もみな賢明で、問題を解決しようと奮闘する勇気ある人々である、またその人々が作り出した制度もまた、おおむね優れた制度であったということです。逆に制度が愚かで有害なものになる時というのは、長い年月その制度が使用され、制度が目的を果たさず、その必要性が失われ、まさしく制度が古い家のようにガラガラと崩れていく、その時こそ制度は有害になります。その様は人間が天寿を全うするが如くなんともいえぬ哀れみを感じさせるものです。
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さて、改めて結論をまとめようとすると冒頭文と多少違ってきますね。
私が歴史において面白いと感じるのはやはり「連続性」です。
そしてそれによって見えてくるのは、連続性を無視するとたいていの出来事が不可解で愚かに見えること、それゆえ、連続性を無視して物事を見ると多くの問題を見誤ることになる、この辺でどうでしょう。
「歴史」と言われる分野以外でも不可解で愚かに見える事柄というのはたくさんあります。おそらくそうした出来事もまた、十分に前後関係を確認できれば大いに納得できる部分はあることでしょう。しかしそれが歴史となり、まとまった情報にならなければ、その事実が整ったものであることが見えてこない。歴史はそうした出来事と異なり、過去のことであり多くの場合は先行研究があるからこそ、連続性を実感し、改めて物事を見る際には連続性が大事だと感じさせてくれる。こんなところでしょう。