米文学研究者尾崎俊介さんの新著「アメリカは自己啓発本でできている」、私も非常に面白く読みました。流動性が低く閉鎖的な社会がなんらかの理由でその禁制が解かれると、「個人の努力で何とかなる」の時代に変わり、その変わり目に自己啓発が広がるという同書の指摘はたいへん同意します。

日本では1990年代後半に不況による就職氷河期を迎え、続く2000年代小泉政権による雇用法制改正で非正規雇用の道が大きく拓かれ、終身雇用や年功序列も希薄になりました。日本で自己啓発本が大真面目に読まれるようになったのはまさにこのころからです。自己啓発はそれ以前にも存在はしていましたが、たとえば青春出版社の自己啓発誌「Big Tomorrow」が1980〜90年代、その読者も含めいくぶん笑い物にされていたことからわかるように、メインストリームからもサブカルからも外れた「ちょっと奇矯な分野」ぐらいにしか思われていなかったのです。

しかし就職氷河期を経験しロスジェネ(喪われた世代)などと呼ばれた1970年代生まれの世代が、正社員への道を閉ざされる中で、彼らが20代後半〜30代を迎えた2000年代後半に唯一の希望としてすがったのが自己啓発本でした。「自己啓発本を読んで成功者になるのだ!」と夢みたのです。日本の非正規労働を「強制された流動性」と捉えれば、「アメリカは自己啓発本でできている」で書かれていることと通底していると思います。

さて、自己啓発本をどう評価するか。わたしは古代ギリシャのストア哲学をこよなく愛しておりますが、「自分の意のままにならないことは気にするな。自分の心だけをコントロールせよ」と説くストア哲学は見ようによっては自己啓発的です。このような「自分を律する」ための自己啓発であれば、わたしはもっと広まっても良いのではと思っています。

こういう「自分を律する」系を同書では、「自助努力系自己啓発本」と呼んでいます。しかしこの流れとはまったく異なる方向として、現代の自己啓発では「引き寄せ系自己啓発本」というのが大きな市場になっているということも指摘されています。引き寄せ系はこう説明されています。

”夢と現実はイコール であるということ。 夢が「原因」となり、それは必ず「結果」となって目の前に現れる。ゆえに、夢を実現すること自体は実は非常に簡単なことで、ただその夢を見続けるだけでいい。そうすれば、あなたは夢を実現させ、望んだ通りの環境を手に入れるであろう。”

つまり「人間が心の中で願うことは、すべて実現する」 という考え方です。これはまさに通称「スピ」、いわゆるスピリチュアル系とつながりやすいということがわかります。スピからさらにはそこから陰謀論にも接続されてしまう。「引き寄せ系」とスピと陰謀論はまとまりやすいのです。

そう考えれば、あまりにも引き寄せ系の自己啓発本が流行るのは社会としてもあまり良くない傾向だと言えるでしょう。

ただ2000年代後半に大流行した日本の自己啓発も、2020年代に入るころから沈静期してきた印象もあります。20年も夢を追い続けてきて、さすがに「本を読んだだけで成功者になれる人なんてごくわずか」という当たり前のことが認識されるようになったからでしょう。地に足をつけて仕事に取り組む時代に回帰してきたと考えれば、よい傾向だと思います。

2024/05/28投稿
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