「漢文を読めるようになるには、どうするのがよいか?」中国古典を教える教師という職業柄、この種の質問は、過去にも何度もたずねられました。そのたびに、「さあ、どうすればいいんでしょうね?」と言ってはぐらかしてきたのですが、その理由から説明します。
まず、「漢文」という言葉にひっかかります。日本列島の歴史においては、「和文/漢文」という二項対立があるようですが、私は日本列島の側から中国文を見ているという認識がないので、違和感を抱いてしまいます。それで、「漢文」と聞くと、反射的に「中国語の文言文」と言い換えてしまいます。しかし、これはあまり重要でないことです。
より重要なのは、「中国語の文言文」といったところで、あまりに多様で茫漠としてしまい、とらえどころがない、という点です。中国大陸のものにかぎっても、周代の青銅器に鋳込まれた銘文、戦国時代の諸子百家の思想を伝える文章、歴史書、秦漢の法律、漢訳された仏典の文章、元代の行政文書、道教の教え、医学書、口語に近い書き言葉、そして各種の韻文、などなど、あまりにも多様で、すべてを読める人はこの世に存在しないと思います。もちろん、私も読める範囲のものだけをちまちまと読んでいるだけです。読めないものは、本当に読めません。
ですから、あらかじめ、「これを読みたい」という書物を決める必要があるのです。たったひとつの書物を読むにしても、「この篇は読めるが、別の篇はまったく読めない」「だいたいわかるが、細部になるとおぼろげにしかわからない」といったことが頻繁に起こりますし、権威ある先生に質問しても、まあ判然としなかったりします。ですから、「漢文を読めるようになる」という野望は早く捨てて、狭い分野を選択しコツコツやるのが一番だと、私は思います。
ましてや、日本列島の住人が書いた中国文風の文章については、やはり別に取り扱ったほうがよい分野でしょう。
しかしおそらく、お聞きになりたいのはそういうことではなくて、「よい教科書はないか」「効率的な勉強法はないか」ということだろうと思います。
高校の漢文の教科書は、よい手引きだと思います。しかし、読みやすく、わかりやすい文章ばかり選ばれているので、そこに載っている文章がだいたい読めたとしても、ほかの書物が読める保証は全然ありません。私は品詞に分けて読む読み方が必要であろうと考えていますが、そういったものは、非常に少ないのが現状です。拙著『中国注疏講義――経書の巻』に紹介した、宮本徹・松江崇『漢文の読み方』(放送大学教育振興会、2019年)くらいでしょうか。ごく初級向けの読解法を、いずれ私も書きたいと思っていますが。
以上、まとめると、以下のような学び方が考えられます。まず(1)自分が読みたい書物を決める。少なくとも時代と文体を選択する。(2)漢和辞典(『漢辞海』か『漢字源』。両書には品詞が明記されている)に照らして、自分の読みたい本を読んでみる。(3)疑問点があるときは、『漢文の読み方』を調べる。
あとは、読めるひと(かつ教育的配慮のあるひと)に一緒に読んでもらうのも、かなり確実な方法です。
以上は、一応、日本語環境のなかでの学習法を念頭に置いて回答してみました。
さて、次の問題、「漢文を読むのに、現代中国語の知識はどの程度必要か」、です。
もし、「日本漢文しか読みたくない」というのでなければ、中国語を勉強せずにすませるのもよいでしょう。もしそうでないのなら、ぜひとも現代中国語を勉強してください。なにしろ、「中国語の文言文」は、すべて「中国語」で書かれたものですから、現代中国語を勉強するのがよいです。「中国語の文言文を読みたいが、現代中国語を勉強しない」というのは、「16世紀の英文学を勉強したいが、現代の英語は学ばない」というのと同じです。現代中国語を一定程度身につけて活用すればよいのであって、別に、「中国語ペラペラ」になる必要はないのです。
さらには、「中国語の文言文」を読むためのツールや研究は、そのほとんどが中国語で書かれていて、日本語ベースのものだけでは学習の用に足りません(必要となる参考文献類も、拙著『中国注疏講義――経書の巻』に書いておきました)。それゆえ、現代中国語を勉強して、どんどんそれらを使ったほうがよいです。
もし、どうしても中国語を勉強したくない、ということでしたら、またMondで相談してください。勉強したくない理由に応じて、解決策を考えてみたいと思います。