えーと。と、何かお返事をしなければと思いながら、しばらく考えてしまいました。
まず、「推敲」とはどういうことかと言えば、それは、文章に関して、その文字遣いや表現など、時には文章の内容そのものをより良いものにするために考え、工夫していくことです。簡単に言ってしまえば「文章に磨きをかける」ということだと思います。
最初に書いた文章というものは大抵、勢いが勝りますから雑であったり不注意であったり、また誤字脱字があったりするものです。それらを注意深く削り取り、足りない部分は補い、また異なる表現に切り替えていくのが基本的な「推敲」と癒えるでしょう。
その推敲に「飽きてきたら」というご質問の意味そのものが、私にはよく分からなかったのです。推敲に飽きちゃったから、もう辞めたい、という意味でしょうか? それは、本当は推敲すべき文章なのに、飽きちゃったから、そのまま(たとえば)どこかに応募する、とか、本にして出版するということですか? ご質問くださっているあなたが、実際に文章を書いている方なのかどうかは分かりませんが、自分の書いた文章を推敲するのに「飽きる」という感覚自体が私には信じられないことです。果てしなく続く作業は、人によっては楽しいものではないかもしれませんが、それは是非とも必要なことです。それとも、推敲するまでもなく完璧な文章を書いているというのであれば、「どこもいじるところなんかないしな」と思うのでしょうか。
以前、ある編集者から、既に故人となっている有名作家の話を聞いたことがあります。その方は大変な売れっ子で、次から次へと文章を書いていかなければ間に合わないほどだったのかもしれませんが、推敲ということはまったくせずに、書きっぱなしの原稿を編集者に常にそのまま渡していたのだそうです。すると、どういうことが起きるか。何とか雑誌に掲載出来るように、または一冊の本にまとめられるように、担当の編集者が大変な苦労をして誤字脱字、表現の間違い、重複している部分などを直していたのです。それでやっと雑誌などに掲載されるわけですが、その方は、ご自分の原稿が第三者の手によって「手直し」(その場合は推敲とは癒えませんよね)されていることにすら気付かなかった。つまり、大して目を通してもいなかったということです。
また、私がある賞の選考委員をしていたときにも、「もう少し推敲していれば大変面白い作品になったのに」と残念に思う作品がいくつかありました。著者の方と話す機会があったときに、そのことを正直に伝えたこともあります。「丁寧に推敲すれば、次回はきっとうまくいくと思いますよ」と言いました。その方は、その時は黙って話を聞いていましたが、多分、我慢が出来なかったのでしょう。他の賞に応募して、そのまま受賞するところまで行きました。ですが、本になったのは、その受賞作一冊きりです。その後、お名前も見なくなりました。
自分の作品を丁寧に推敲ということは、それくらいに大切なことです。もしも、あなたが文章を書いていて推敲に「飽きる」ようであれば、もう一度、何のために文章を書いているのか、誰の為に書いているのか考え直す必要があるのではないかと思います。