私刑にさらされた被害者の訴えが聞き届けられ、
「私刑にすると罰を受ける」ことが周知されればネット私刑は相当数を減らすのではないでしょうか。直近のニュースでこういうものがあります。
「当たってねーじゃん、死ねよ」SNS中傷で情報開示命令 DeNA関根外野手、Xで報告 https://www.sankei.com/article/20240815-YFQROW7QEROGPPAKWFNXXYUXAA/
「批判と誹謗中傷は違う」というのは便利な言葉であって、それ以上のものではありません。
強いて言うならそれは場と方法で区別できるかもしれません。
たとえばある学者が著書に誤りを記しました。
これに気づいた同僚が「学会で(場)」、「詳細な資料や根拠を元に質問(方法)」することを誹謗中傷と考える人はそういないでしょう。
他方、「SNSで(場)」、「強い口調で相手を批判する(方法)、また根拠がない」という場合は、
批判というよりは甘く見ても「いさかい」であり、内容より言葉選びによって誹謗中傷か「一応罪には問われない程度の言いがかり」に分類されるかのどちらかではないでしょうか。
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さて、こうした事態を「なくす方法は」と問う前に「なぜ起こるようになったか」を考える方が素直でしょう。
答えは簡単、インターネットの普及により人々はあまりにも簡単に、対面で悪口を伝えられるようになったからです。
悪意の表明は今に始まった話ではありません。
『徒然草』の中では著者がどれだけ人に恨みを持ち、どれだけ人を見下しているかが鮮明に描かれています。きっとこの本の著者が現代で生きていたらSNSで炎上しているでしょう。
他方、同じ日記という媒体でも『方丈記』では「都、つまり人の集まる所の害とは火事、竜巻、地震、人間関係である」という記述がある通り、ある人が誹謗中傷に使うものがそう使われないことも一応はあります。
が、『徒然草』の著者のような人間をすべて排除する訳にはいきません。そういう人は本の事例が示す通り、1000年前にもいたし、私が知るギリシア哲学の分野まで広げれば2500年ほど前にもいたのはまあまあ有名です。この悪口の主はプラトンですね。
そんな、好きあらば悪口を書き、対面でも争いをする人間をインターネットが結びつけてしまったなら、私刑でもなんでも起こるでしょうというのはアマチュア歴史学者としての私の視点です。
テクノロジーが新しいなにかを補助してくれるなら、それは世界を巻き込むチャリティーイベントができるということと同時に、世界を巻き込む私刑だってできるということです。
こうしたテクノロジーと人間との関係についてはこの本が面白いですね。
コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫 イ 57-1) https://amzn.asia/d/7jRYATJ
また、SNSやインターネット上にいさかいのついてはNHK教育の「100分de名著」の哲学者ローティの回で取り上げられています。
興味があればどうぞ。
番組テキスト
NHK 100分 de 名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年 2月 [雑誌] (NHKテキスト) https://amzn.asia/d/iAethGd
番組のアーカイブ視聴
https://www.nhk-ondemand.jp/program/P202400382400000/index.html