私は40代ですが自分の好きなものがおおよそ決まってきたと感じています。

醤油はヤマサ、ソースはコーミ、マヨはキユーピー、ポン酢はミツカンと決まっていて違うのを使うといつも合わないなあと思います(美味しくないではないです)。

ラーメンは意識高い系鶏ガラ豚骨清湯の醤油、カレーは欧風よりインド系、ビールは華やかなエールよりさっぱりピルスナー、日本酒は吟醸より淡麗すぎない純米酒、ワインはシャルドネよりソーヴィニヨンブラン、カベルネよりピノが好きという感じで決まっています。

好きなものを増やしたいので、好きではない方に挑戦するけど、やっぱりいつものにしておけばよかったと思うことが多く、挑戦することが不毛に思えることもあります。

イナダさんは好きではないものに挑戦するタイプとお見受けしますが、どんなモチベーションでこの後悔を受け流していますでしょうか?

僕は常々、

「行ったことのないお店や新しくできたお店に行くのは、その後の人生で通い続ける店を増やすため」

と主張しています。

これは家での料理や調味料、嗜好品などにもある程度当てはまると思います。新しいものに挑戦するのは、その後の人生で愛し続けるものを探すため。

この理論で行けば、人生のどこかで「回収」が始まるはずです。これ以上人生に必要なものを増やす必要がなくなるタイミング。2ヶ月ごとに通う店のローテーションは全て埋まり、膨大なトーナメントを勝ち残ったワインやビールの優勝が決定する。

だから質問者さんはそれでいいんだと思います。言うなればすごろくの「上がり」です。ソーブラが好きと言えるのはシャルドネの味を知っているからです。知らないままでは上がれません。

 

ただ、回収期に入るということは、人生の折り返しに入ったことを意味します。しかし少なくとも僕はそれを認めたくありません。

かつて、20才くらいの頃だったでしょうか、音楽好きのおっさんに「お前らはなんでビートルズを聴かないのだ。あれこそ原点だろう」と説教をされたことがあります。僕は内心「今プライマルスクリームすら聴いてないあんたに言われたくないよ」と思いました。

当時僕は、おっさんが青春時代に聴いた音楽だけをいつまでも聴き続ける現象が最高にカッコ悪いと思っていました。ポピュラーミュージックというものはあくまで同時代的なものであり、その時代においてはその時代に生まれたものが最も優れているのだ、という思想です。

だから僕は僕自身がおっさんになり、新しい音楽を聴くモチベーションが失われていった頃、古いものも含めて一切聴くことをやめてしまいました。古いものだけを聴くカッコ悪さに耐えられなかったからです。

 

そういう不毛なことが起こらないよう、今は、回収しつつも拡散を並行して同時に行なっている状態なのだと思います。なので今のところは、死ぬまで純粋な回収期には至らないつもりです。

幸い、僕は「おいしいと思える物の幅」が時代と共に確実に拡大しています。これがこの先も続くのなら、折り返しは来ません。言い換えると、死ぬ瞬間まで、その先の人生及び回収期が続くテイで死んでいく、ということで、それはなかなか悪くないではないかと思っています。

 

質問者さんはその一方で「好きなものを増やしたい」とおっしゃっています。人は自然と何かを好きになるものだと思いがちですが、僕はそれは一部錯覚なのではないかとも思っています。人は好きになりたいものを好きになる。更に微分すれば、人はそれを好きな自分になりたいからそれを好きになる。

「僕はいつのまにか柿が好きになりました」

の真実は

「僕は柿が好きになりたいので好きになりました」

の真実は

「僕は『柿が好きな自分』が好きなので柿を好きになりました」

という構造です。

なので何かを好きになる時は、それを好きな自分が好きになれるかどうかが大事なのではないかと思っています。「どうれ味見してやろうか」だと「うむ、悪くない。しかし自分はこれより良いものをたくさん知っている」という結果にしかならない気がします。

これを好きな自分になれたらいいなあ、という憧れがベースにならないと、好きなものなんてそうそう増えない。逆に言えばそういう憧れの対象がもう世の中に無ければ、それはやはり「上がり」であり「回収期」なのだと思います。

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