クリスチャンです。それはやはり「信仰のからくり」がわかることです。
たとえばこういう本があります。

書き換えられた聖書 (ちくま学芸文庫) https://amzn.asia/d/1KQdUmI

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この本は著者が「聖書に書かれていることは全部正しい」と信じて生きてきて、大学でその転機を迎えたお話が書かれています。
著者は教授に聞きます「聖書の◯◯の箇所の文法が普通と違うのですが、いったいどういう意味があるのでしょう」、教授は曰く「書いた人が間違えたのだろうね」と。
これは著者には衝撃的でした。聖書は神が書いた正しい本のはずなのですから。
それを人間が書いたこと、あまつさえ書き間違えをする人間が書いたというお話は著者の人生を変え、聖書を批判的に検討する聖書学に導いたのでした。
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以上のような経験はどっぷりと信仰に浸っていたからこそ受けた衝撃です。多くの現代人がそうであるように「宗教なんてうそっぱちだ」と”宗教という病”に触れた経験がなければ、たとえばオウム真理教のような”信じさせる技術だけは一流”の新興宗教をあっさり信じ、「これこそ本当の宗教だ」と落とし穴にハマるのでしょう。

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私自身は『書き換えられた聖書』の著者ほどは信仰は篤くありませんが、西洋史を学ぶ関係で「キリストの神」には度々触れていました。神そのものではなく、神を信じる者たちの行いをです。

またインド史を学べばヒンドゥー教を仏教を、日本史を学べば神道や日本式仏教について、その信者の心理と行いにふれることができます。

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信仰を持たない方に信仰を持つ利点を伝えるとすれば「信仰」という枠をすでに使っているので、宗教詐欺に合わないで済むということです。キリスト教にせよ仏教にせよ、大手なら不祥事こそあれど、世を騒がせる新興宗教のように人生まで取られることは稀です。
また、世界的には宗教国の方が多いです。そうした時に自分の信仰とその信仰の内容をとうとうと語れるのなら、「常識的な人」として歓迎されることでしょう。

たまに海外で「無宗教です」と答えた日本人が苦労した話を聞きますが、その回答の重大性も宗教と「その周り」にふれることでようやくわかることです。

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では無宗教で同時に宗教の専門的な知識を持てばそれでいいのではないか、という想定は可能ですね。しかしそれは料理店の料理を食べないで味を語ったり、ピラミッドを見ていないのにピラミッドを語るように不毛なことです。
宗教の知識という客観的な事実に加え「個人的な信仰」という主観的な経験も知らなければ宗教を知ったと言えません。そしてこの主観的な体験を欠いていると、似た手法の新興宗教に免疫を持たないのです。

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私自身は以上のように専門的な知識と多少の個人的な信仰という形でクリスチャンと名乗っています。私が語りたいことは聖書学者田川建三がすでに語っていますので、図書館か古本屋で見つけたらこの本を読んでみてください。

キリスト教思想への招待 https://amzn.asia/d/h4qvAmv

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