こうなるとそれはもう「美学」の問題です。そして美学は人の数だけあります。質問者さんの美学は僕の美学と似ていますが、それでもやはり少し違います。ここではあくまでその「僕個人の」美学に基づいてお答えします。なので決してそれが絶対的に正しく他が間違っているとは思わないでください。
さて、何を食べるにしても、それを徒や疎かにせず、意志を込めて計画的に構築したストーリーに則って進めていく、それは僕も全くもって共感します。引用のカツ丼の食べ方にしても、それが実際に自分の食べ方とも酷似しているというだけでなく、対象に真剣に向かい合うというマインドの部分に強く共感します。
また、複雑にゆっくりと楽しむために少しずつ食べる、という質問者さんの営みにも強く共感します。そこにおいてお酒が遊びやリズムを生むという(何たる見事な言語化!)にも強く首肯せざるを得ません。
ただ少し違うかもしれないのは、一口でも食べられるから揚げや卵焼きを何口かに分けて食べることは僕もよくありますが、その間、他のものには絶対に手を付けません。それだけでなく、たとえばお弁当にはギザギザカップに入った「ひじき煮」「煮浸し」といったものがよく登場しますが、それも一度手を付けたら無くなるまで他のものには手を付けません。
これにはいくつかの理由があります。ひとつはそれが日本料理の作法に則ったものだからです。日本料理の作法は和食の作法と常に完全一致するわけではありませんが、その場合僕はあくまで日本料理のそれを優先します。何故ならば日本料理は僕にとっての「推し」のひとつだからです。実に単純な理由です。
また(これは何故それが日本料理において良しとされているのかの理由の一つでもありますが)、それは食膳あるいは弁当箱の中の風景の問題でもあります。食べかけのものがとっ散らかっている風景よりも、整然と一枠ずつが余白となっていく方が美しいと感じます。
最後に、これが割と大事なのですが、意思を込めたストーリーに準じて食べ進む中で、この「食べ切りルール」は、より緻密な計画性を要求します。それは単なる制約ではなく、まして単なる形式主義ではなく、ストーリーの起伏をより鮮やかなものにすることで、食事のリズムにダイナミズムをもたらします。要はその方が「より楽しい」ってことです。
質問者さんがマナーという言葉を使っているので、あえてその切り口で言うならば、僕は基本的にはマナーには可能な限り従うべきと考えています。何故なら、これはいつも主張していることなのですが、マナーとはそれを最もおいしく食べるために培われてきた集合知だからです。
ただし、マナーには多様な解釈がありますし、常に絶対的に正しいものでもありません。
たとえば、酢の物や煮物の汁を飲み干すのは正しいマナーですが、それを見て「みっともない」と感じる人は、日本人でも現にいるからです。そのマナー体系の中にはいない料理人であれば、飲み干すことができない味の汁をそのまま出すことだってあり得ます。やはりそこには臨機応変さも必要なのです。
とはいえ大筋においては、やはりマナーは知っているに越したことはありません。これは繰り返しになりますが、人目を気にするというよりはあくまで自分自身の快楽のためです。
とはいえ(それこそ今回質問者さんがご友人の目を気にしたように)他人目を気にすることも時には大事です。むしろそれ無かりせば、マナーは血の通ったものにはなりません。
もちろん最初から全てのマナーを知り尽くすことは不可能ですし、他人の目を常に正しく推量することもまた不可能。こればかりは、経験を積み重ねることで、徐々に自分の美学を構築していくしかありません。必然的にその美学は、徐々に変化していくものでもあると思います。
ただその変化の中でも確実に言えるのは、真剣に食べる姿はあらゆる流派の壁を超えて美しい、ということではないかと思います。