多くの観点から意見を出してみますね。
このことから私は、「他者(生身の人間)が模倣したり学習することに特段文句はない、あるいはさほど気にしてはいない」が、「生成AIによって、あるいはそうしたテクノロジーを用いて自分の作品から学習されることには忌避感がある」と読み取りました。
Noです。どうもイラスト絵描き界隈では模倣自体が歓迎されていないようです。
この辺はアマチュアの情報である必要があるため、Xまとめを引用します。
https://togetter.com/li/2209390
さて、ここで重要な単語は「トレパク」です。「トレース、パクリ」の省略のようですね。
このまとめのように「私の絵と似ている。”トレパク”だ」というのは、どうやら批判にあたる言葉のようです。
「トレパク」という単語で調べれば似たような事例はたくさん見つかりますので、
AIであろうと人間であろうと、絵描き界隈で模倣は歓迎されていないと考えています。
「人間の学習と生成AIの学習が同じ、あるいは極めて近い物」であるのなら、そこに「過度な忌避感は生まれない」と考えても良さそうなものなのですが、
Noです。ご質問の前提は、人間とAIの違いを想定していないようですね。
AIの-そして機械の-良くも悪い点は疲れもしないし、無尽蔵にそれを行える点です。
すでに挙げたように個人の”不完全な”模倣も歓迎されない絵描き界隈ですが、AIはそれにおおむね完璧にこなしてしまいます。
AIの「体力」を人間にたとえるなら100人の人間がそれを学習し、100人が描くようなものです。
人間に模倣を頼んでも数分で完成した絵は出てこないでしょうが、AIならそれが可能です。
質問者さんも一人の人間に写真に取られ、それがたまたまある広告の背景に映り込むのと、
100人の人間にあらゆる角度から取られ、3Dフィギュア化して販売されることが同じとは思わないでしょう。
上記のたとえは決して適切とは言えませんが、「規模が異なる」ということが伝われば幸いです。
であるならば、なぜ「人間の学習行為には感情的に忌避感を抱かず、生成AIには感情的に忌避感を抱いてしまうのか」という点が、私の感じている疑問になります。
さて、ようやく私の領域に入りました。私は歴史学者ですので。
回答の前に現在歴史学で感情史がどのように進んでいるか例を示します。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3531
www.seidosha.co.jp
この本は怒りの歴史を追うことで、「人間には本来怒りの感情が備わっている」という常識を退け、
「怒りは文化的なものである」ということを明らかにしています。
「なぜこう感じてしまうのか」という質問者さんの結論は、結論ではありません。議論の始まりです。
もしそれを本気で調べたいと思っているのなら、前掲書と同じように過去の怒りの事例と現在の事例を突き合わせるという途方もない労力がかかります。
他方、そこまで労力をかけなくともすぐわかるのは「感情論である、ということは”価値を下げることではない”」ことです。
前掲書においても指摘されているのは「怒りの価値は変動している」ことです。
かつて、怒りは身分の高い人のものだと捉えられていました。
身分の低い人間は「怒りを持たない」と文字を書ける身分の人たちは-奇妙な論理ですが-書き残しています。
さて、これがフランス革命期には身分の低い人々が「怒り」、そのことを身分の高い人々も認めざるをえなくなりました。
しかしそれでもなお「個人が怒っている」ことは問題ではなく、「私は怒っていない。私は理性的だ」という文句が1900年代の基本的な抗議活動の形でした。
それが2000年代のアメリカ合衆国では「私は怒っている」という言葉が抗議の立派な言葉となっていると指摘されています。大変興味深いことです。
以上のような変化の背景は前掲書をあたって頂くとして、この事実を指摘するために前掲書は約300ページを費やしています。
「あれは感情論だ」と認定すること、そしてそれが仮に感情論だとしてその感情がいかに難しいものか!とてもワクワクさせられるお話ですね。
感情史には様々な本がありますが、質問者さんが興味を持っている感情に一番近いのは怒りで、それを扱っているのは前掲書かと思います。
参考になれば幸いです。