「体験」や「経験」って何なのだろうか、と思うことがあります

毎年8月になると「『あの頃』を知る人間が減ってきている」と言われますが、式典で若者が静かに聴いている周りで年配の人達が喧しくデモをしたり、被爆者(に近い世代)団体が根拠も無しに処理水海洋放出を非難したりもありました

今回の能登地震においても、ジャーナリスト(気触れも含む)が現地に行くのが褒めそやされたりしていますが、行ったところで佐々木さんの言う「現場の哲学」を見なかったり

方や現地に行かずとも、他県留学で能登の学校に通っていた高校生が、能登のイメージを悪くしたくないという思いで被災前の風景をSNSに投稿したり、某番組で金沢大好き芸人がトークしたり、比べるのも失礼ですが、そっちの方が復興、復旧の助けになっていると思います

雲仙普賢岳の噴火や、阪神大震災でのメディアの為体から「メディアは何を学んだのか」とも言われますが、今は「総『マスゴミ』化」していると感じてしまいます

素見でしかない取材や経験は、何のための、誰のためのものなのでしょうか

「現場を見る」ということは常に「現場の一部を切り取ってしまう」という危険と裏腹です。これを自覚していないマスメディアの人が実に多い。現場ですべてを知ることなどとうてい無理なのです。

過去のさまざまな震災現場でわたしは現場に行きましたが、そこで見聞きできたのは本当にミクロな知見でしかありませんでした。もちろんひとりの被災者がどんな体験をし、どう感じたのかを現場で取材するのはとても大切です。しかしそれで得られるのは「ミクロの視点」でしかありません。「マクロの視点」は決して得られないのです。

逆に「マクロの視点」だけでも不十分だということは留意しておく必要はあるでしょう。現場の「感度」みたいなものはとても大事です。

だから「ミクロかマクロか」という二択ではなく、マクロの視点を持って災害の全体像を知るという努力をした上で、そのうえでミクロの視点によって現場を見ることが大切なのです。「ミクロ」と「マクロ」の両方を持つことがベストということです。このミクロとマクロの両立という観点が、日本のマスメディア業界人には欠落している人がたくさんいます。

それどころか、ミクロの視点でしかないものですべてを語ろうとする。たとえば福島原発事故でも能登地震でも、現地で自治体や政府に批判的な人を探し出してきて、取材する。探し出さなくても、そういう発言をしている人を他のメディアの記事や番組などを見つけて、それを真似して取材する。

だからそういう人には取材が殺到するのですが、その人の発言はあくまでもその人の個人的な見解や思想を踏まえたミクロの視点でしかありません。なのにそのミクロの視点で災害のすべてを語ろうとし、「現地ではこのように批判が渦巻いているのです」といった非常に解像度の低い報道をしてしまう。

わたしは新聞記者時代、なにかの取材を命じられて「下準備をしなければ」と情報資料室で調べものをしていたりすると、「佐々木!何をやってるんだ。早く現場に行け!記者は机上じゃなく現場で学ぶんだ!」と怒鳴られたりしました。こういう「現場に行けばすべてが学べる」という偏ったマインドが、21世紀になってもいまだに日本のマスメディアに蔓延しているのは非常に問題だと思います。

6か月

利用規約プライバシーポリシーに同意の上ご利用ください

佐々木俊尚さんの過去の回答
    Loading...