弊社は、現社長である武藤が地元の岐阜で始めた一軒の和食店からスタートしました。僕はそこをオープンからしばらく手伝うということで参加したのですが、結局そのままずるずると居座り、気が付けば今に至る、という感じです。
その店は当初、名古屋で始める予定もあったのですが、やはり最初はなるべく地縁血縁に頼れるに越したことはないだろうという判断で、武藤が高校までを過ごした岐阜になりました。
店を始めると、僕はその判断の正しさを痛感しました。特に印象的だったのは、「同級生」よりむしろ「先輩」の方が多かったことです。部活の先輩が中心でした。武藤は義理堅く愛嬌があってコミュ力マックスレベルというキャラでしたから、きっと高校生時代は彼らに可愛がられ、また一目置かれていたのであろうと思います。
その後その店は2号店を出し、僕は最初の店をそのまま任されることになりました。その頃僕はお客さんにずいぶん「なぜ独立しないのか」ということをよく言われましたが、そもそもその店が武藤の地縁血縁無しにスタートダッシュをキメることはなかったであろうことが身にしみていたので、とてもそんなことは考えられませんでした。
かと言って地元鹿児島に帰る気もありませんでした。中高の同級生はそのほとんどが鹿児島を出ているような学校だったからというのもありますが、そもそも僕には友達があまりいませんでしたし、先輩からの認知度も限りなくゼロだったはずです。
それよりだいぶ前ですが、大学卒業を控えた京都で、半ば冗談でもありましたが「このまま就職せず京都に残っていずれは店をやろうかな」と、ある人に相談したことがありましたが、その時は「京都で京都人以外が店をやっても潰されるだけやで」と、はっきり言われました。
また、その岐阜の店は後に大垣市という車社会の小さな町にも出店しましたが、その街には「先輩の店ローテーション」という風習がありました。若者たちは、それぞれの「ヤンキーの先輩」が営む店を順繰りに回り、だからよそからの新規参入の店のマーケットは実は極めて狭い、という市場でした。
この「ヤンキーの先輩の店」は、何も田舎だけの話でもありません。東京のワインバーやビアバーでいぶりがっこクリームチーズを出している店はだいたい「ヤンキーの先輩」の店である、ということを僕はネタとして言ったりしますが、100%のネタというわけでもないと思います。実際僕はその手の店でいきなり「どこ中ですか?」と聞かれたことがあります。
なんだかんだ言って日本は体育会的な、あるいはヤンキーカルチャー的な地縁関係が、社会の重要な基礎だと思います。ただそれは、ネットの隆盛により過去のものになりつつある面もあるのも確かでしょう。だから地方都市やゴリゴリの下町でいきなり新しい店を始めても、ネットで宣伝すれば成立するようなことは、今なら充分可能でしょう。
ただ僕はかつての岐阜での、先輩と後輩の(体育会的であったりヤンキー的であったりの)初手から強力な結びつきが、やはりあまりにも印象的です。ネットであのレベルの信頼関係を短期間で築くのは、実はなかなかハードルが高いような気もします。