わたしは思春期のころは典型的な文学少年で、その後も一貫して小説は読み続け、40歳代いっぱいぐらいまでは本当にたくさんの文学作品を読んでいました。しかし現在はほとんど読んでいません。年間で読む小説は10冊に満たない程度です。
なぜ小説を読まなくなったのか。ひとつは日本の漫画やアニメの質が驚くほどに向上し、そちらに気持ちを持って行かれるようになったということがあると思います。ネットフリックスやディズニープラスなどで良質なドラマが好きな時にいくらでも観られるようになったということもあると考えています。小説を読むというのは、この日常ではない物語世界にどっぷりと浸りたいという欲求でもあるのですが、その物語欲求がアニメやネット配信のドラマに奪われてしまって、文学作品に割く余地が乏しくなったという感覚を持っています。
もうひとつは、日本の文学作品の想像力にだんだん魅力を感じなくなったということ。かつてわたしは村上春樹さんの作品の熱狂的な読者でしたが、エポックメーキングな「1Q84」を最後にあまり読まなくなってしまいました。この作品の前後に村上さんがエルサレム賞を受賞し、その授賞式で有名な「壁と卵」論を展開されたのですが、ちょうどそのころはビッグテックが台頭し産業がプラットフォーム化していく途上にあった時期であり、その観点から見ると「壁と卵」論は「強大なシステムとか弱い人間の対比って、あまりにも単純な構図では……?」「システムを作っているのがそもそも人間なのだけど」と疑問を感じました。その後の作品や言動を拝見していてもそのような違和感は高まるばかりで、結果として村上文学から個人的に距離を置くようになっていったのです。最近の神宮外苑伐採問題をめぐる氏の言動を見ても、わたしのこの判断は間違ってなかったと改めて感じてもいます。
これは村上文学とは別の話ですが、日本の文学や映画などはいまだに「人間が生態系を破壊している」という環境破壊モノが横行していたりします。しかし日本の生態系が破壊されたのは乱開発のあった1960〜70年代の話です。現代は逆に人間の生活圏が縮小し、森林や野生動物などの自然が猛威を振るっているのです。昨今のクマの住宅地への出没などはその象徴と言えるでしょう。 このあたりの時代の変化のキャッチアップを、日本の文学や映画などのメインストリーム文化はまったくできていない。
だからいまだに「人間が森を破壊していく」みたいな時代錯誤な作品が出てきてしまうのです。その点、漫画/アニメでは「人間の生活圏が縮小し、森林に覆われたディストピア未来」を描く作品が相対的に多く、さすがに良くわかってるなあという感があります。
要するに、なんだか古くさい価値観の作品が日本文学には多いなあという印象が高まり、それであまり小説に近寄らなくなったのです。そんな時間があったら、アニメやネトフリ・ディズニー・アップルのドラマでも観ていたほうがいい。
身も蓋もない回答ですが、それでも時々は小説は読んでいます。古いところで言えば、昭和の時代のカトリックの作家遠藤周作の「沈黙」(近年、マーティンスコセッシによって映画化されました)「イエスの生涯」(これも近くスコセッシが映画化するらしいです)「悲しみの歌」「深い河」はいまも愛読しています。 最近の作品ですと、麻布競馬場さんの「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」「令和元年の人生ゲーム」は現代の都市的価値観を鮮やかに切り取っていて、非常に面白く読みました。
SFでは、皆さんご存じの「三体」。AIと人間の未来を身体性の視点から描いた「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」も素晴らしく面白かったです。直木賞を受賞した「テスカトリポカ」は、まるでガルシア・マルケスを思い起こさせる南米マジックリアリズムなアウトローもので、これも最高でした。