子どもの頃から、私の家族も周囲の友人・知人も、「後ろ向き」な人ばかりで、私が何をやろうとしても「そんなことやって何の意味があるんだ」「他に誰もやってない/やってる人が珍しい」(ようするに、「周りの人と同じことをやれ」ってこと)「大人になってからしなさい」という反応しかしないので、高校生の頃になるともうウンザリして、やりたいことは勝手にやる、誰の同意も求めないし顔色も伺わない、反対されてもやる、反対されるからやる…みたいな性格になってたのはありますw
なぜか子供の頃から「学問をやる」=「語学を学ぶ」と思っていたのと、高校生の頃から「14億も人口がいるなら、中国語ができればどんな商売でも出来るんじゃないか」と考えてました。これは、私が中国語を学ぶことに反対する友人にそう言った記憶がある。
子供の頃、体が弱かったので、父が近所の中国拳法の道場に私を通わせるようになったのですが、それで中国への親近感とか憧れがあったのも影響してるかな。私が子供の頃の日本は中国への好感度が非常に高かった。みんなパンダと香港のカンフー映画が大好きだった。中華料理も大好きだった。だから、中国への関心は子供の頃からあったし、私が小学生の頃に父が北京へ旅行に行って、お土産に故宮の写真集をくれたので、それを何度も繰り返し見てました。だから、いつかは中国に行ってみたいとは思ってた。
ただ、天安門事件が起きた時に、テレビをずっと見続けて、見てると涙がこみ上げてきて、ずっとボロボロ泣き続ける日々が続きました。学校でも泣いてた。小学生の頃から拳法を練習したり、父のおみやげの写真集を何度も見たり、友達と一緒にカンフー映画のマネをして遊んでたけど、天安門事件が起きた時に、今までの中国への憧れを全部裏切られたような気がした。
その頃に、親の知人に中国ビジネスをやってる人がいて、中国のことなら何でも知ってるから、何でも質問してよ、と言われたので、どうして天安門事件みたいなことが起こるんですか?と聞いたら全然答えてくれなかったw
それから、NHKで天安門事件に至るまでの中国の近代史のドキュメンタリーをやってたり、中国軍のドキュメンタリーをやってたので、それをビデオで録画して何度も見て、自分なりに現代中国に関する本を読み始めて、ラジオの北京放送を聞き始めた時に(※当時は短波ラジオが普通にあって、外国のことを詳しく知りたければ、短波で直接その国の政府の放送を聞く…みたいなのがあった)、「そうだ、中国語を勉強しよう」とひらめいた。中国語ができれば、私の「中国への疑問」がわかるんじゃないかと思った。
私が、中国語を学んだり、中国に関する本を読んだり、毎日中国のニュースを見てるのは、「昔の自分の疑問に答える」のが目的で、それを集約したのが「黒色中国」なのでは…と思います。
質問のお陰で、改めて自分の半生を整理できました。ありがとうございました🙇