食い意地が張りすぎているので、食にそこまで興味のない人が少し羨ましいです。

食が幸せや娯楽になっているだけなら良いですが、食に振り回され、食に行動を支配されている自分が恥ずかしくなります。

先日、ほかほかの梅ヶ枝餅をお土産でいただき、私は大急ぎでお茶をいれました。

食後だったため腹具合は満腹に近く、また、アンコや餅のことはそんなに好きなわけでもないのに、このまだ温かい梅ヶ枝餅を美味しくいただかないと!という思いに突き動かされていました。

一方和菓子が好物の家族は、今は要らないと言って、だいぶ時間が経ってから冷めて固くなった梅ヶ枝餅を温め直しもせずそのまま食べていました。そして、それで満足していました。

食は幸せのもとですが、その幸せの追求に全リソースを突っ込んで色々なものを犠牲にするのではなく、ベースとなる生活の余力でおこなえるような理性的な人間になってみたいです。

人は誰しも、とは言わないまでも多くの人が、何かに振り回され、支配されているものです。ギャンブル依存や恋愛依存のように周りに迷惑をかけがちなものもあれば、ゲームオタクやアニメオタクのように概ね人畜無害なものもあります。そしてそれは趣味の世界にばかりは止まりません。こうせずには生きていけない、という強迫観念めいたものは、当事者以外からは全く理解できないものです。ヤンキーはどうして「なめられたら負け」が行動原理になるのか、なぜある種の「インフルエンサー」が偏った美に執着し続けるのか、それは誰にもわかりません。本人たちも答えられないでしょう。

食べ物に対する執着は、基本的に「人畜無害」ではありますが、それは普通の人々の「生活」と重なり合う部分も多く、そこではしばしば(質問の中の梅ヶ枝餅のように)齟齬が起こります。

僕自身は今でこそ「あの人は異常者」ということが各所で浸透しきっており、また、それで食ってるという厳然たる事実があるので、その異常性が容認されます。これはとても楽な立場です。しかし昔は決してそうではなく、相談者さんと同様の齟齬に悩んだことも多々ありました。

その頃の経験がその後、異常者は自分が異常者であることを自覚し、マジョリティになるべく迷惑をかけないように生きていくと共に、その裏では異常者仲間を増やし、連帯し、こっそり生きやすい世界を構築すべし、という思想を生みました。それが元々のフードサイコパス理論の核であり、今では「周縁の民理論」「ゾンビ理論」に展開しています。

相談者さんに間違っている部分があるとするならば、「食は幸せの元」という前提のところです。それはあなたにとってたまたまそうである、ということにすぎないのです。確かに食はあらゆる人に幸せをもたらすかもしれませんが、そこには上限値のようなものがあり、多くに人々にとってその上限値は決して高くありません。そしてその分他の何かが「幸せの元」になります。

そして、リソースを食に突っ込むこと自体は決して間違っていないと思います。ただしそれはこっそり遂行されねばなりません。同好の士を発見できれば、あるいは家族や友人をそこに引き摺り込むこと(ゾンビ化)ができれば幸いですが、そうでなくてもその孤独を楽しめるようになる必要はあるかもしれません。

人前ではあくまで「生活の余力の範囲内」であるかのように振る舞うのは、それはそれでゲーム感覚で楽しいはずです。そこはそこで楽しみましょう。そして同好の士以外は誰もいないところでは遠慮なく逸脱を満喫するのです。

理性的である、というのはそういうことだと思います。第一、今更ガマンなんてできないですよね? ご自分でも分かってて聞いてますよね?笑

1年

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