時折「今のテレビなどは、とりわけバラエティなどは昔と違って毒気が抜け、つまらなくなった」といった主旨の意見を目にします。

・ある特定の属性の人を面白おかしく揶揄するような表現

・物を破壊したり、実際にけがを負うなどの危険な行為

・今では暴言や中傷にあたる強く尖った言葉や表現

その他にも様々あったとは思います。

ざっくり言うと、差別的な表現や意地の悪い表現、他者を傷つけるような表現は、徐々に消えて行っているわけです。

ふと思ったのは、よくよく考えてみれば上記のような「差別的で意地の悪い他者を傷つける表現」というのは、ともすれば「自分自身(テレビなどのコンテンツ消費者)にも牙をむく可能性」はあるわけです。

だからこそ、(少なくとも建前上は)教育の現場などでは自他が安全に社会生活を送るためにも、そういった意地の悪い行為は「眉を顰められる行為、やってはいけない行為」と教わってきたと思います(それでも現実には差別やいじめ問題などは厳然として存在しましたが)。

また、人間には「自分が当事者ではなくても、実際の事件や事故などを見聞して、被害者に対いて共感や同情し、我がことのように嘆き悲しむ能力」も備わっています。

だからこそ、遠くの戦争被害者や自分とは直接接点のない事故の被害者や遺族に対して、共感や同情の念を抱き、ボランティアなどの支援に繋がっているのだと思います。

以上のことを踏まえてなお、

「なぜ多くの人間は、自分が同じ目に合ったら怒ったり拒否するような行為を、テレビや漫画などのメディアでコンテンツとして楽しむことができた」

のでしょうか?

一つの答えとしては

「それが架空の・・・コンテンツとして消費するために作り出されたものであると理解しているから」

というものがありそうですが、であるならなぜ

「同じ差別的表現や意地の悪い表現、危険な行為であっても、架空のものであれば楽しめる」

のでしょうか?

基本的には「番組では”その当時”受け入れられない暴言等々があった」という部分が事実に反しているように思います。

たとえば「今では放送できない番組」の具体例を探すと次のような記事がヒットします。

https://toyokeizai.net/articles/-/398623

ヤバすぎる爆笑ドッキリ今は放送できない6選

「『ドッキリGP』や『モニタリング』のようなドッキリ専門の番組だけでなく、『水曜日のダウンタウン』のワンコーナーにもなったり。今、ドッキリはテレビ制作サイドの定番になっていますね」そう話すのは、コラム…

toyokeizai.net

そしてどういう番組が今では放送できないかと言えば

コンプライアンス上、今では絶対に放送できないのが1990年代に人気を博した『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のワンコーナー“人間性クイズ”。

「ポール牧さんやチャンバラトリオの結城哲也さんらベテラン芸人が仕掛け人で、出川哲朗さんや上島竜兵さんら後輩芸人にSMプレーなどを強要するというもので。今ならパワハラ、セクハラでアウトです」(前出・成田さん)

のように、当時はパワハラやセクハラを告発したり処罰する習慣が「テレビの外でも」根付いていなかったので

「見過ごされた」訳ですが、流石に現代ではBPOや放送局に批判が寄せられたり、SNSで炎上したり、単純に視聴率が取れない…… 端的に言って「面白くない上に危険」なのでもう放送できないと考えられているようです。

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あるいはもっと歴史的に考えてみましょう。

「バナナの皮で滑る」という冗談の表現は一見いつでも通用しそうです。

しかしこの表現には2つの要件が必要なのです。

1.バナナの皮は滑るという常識の普及

2.バナナの皮で滑る事故が日常生活で減り、笑い事となる

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480434876/

『バナナの皮はなぜすべるのか?』黒木 夏美|筑摩書房

筑摩書房『バナナの皮はなぜすべるのか?』の書誌情報

www.chikumashobo.co.jp

上記参考書籍によりますと、明治の時代にバナナの皮で滑ることは笑いごとではありませんでした。

なぜなら当時は果物の皮のポイ捨てがありふれていて、多くの人が実際に被害に遭っていたからです。

特に電車がひどく、バナナの皮やりんごの皮は大量に捨てられるのが日常的だったそうです。

さて、そうしたバナナの皮で誰もが転び、怪我や後遺症に苦しむ時代が終わります。

昭和ごろになると電車内のポイ捨てが落ち着き、その段階でようやく「バナナの皮で滑る」という芸が現れたそうです。

しかしこのお話には後日談があると考えられます。

現在、バナナの皮で滑る芸を見ることはそうありません。なぜなら、滑って転ぶことが危険であることが周知されているからです。

すなわち、社会規範としてそれが許されないとそれは笑い事ではなくなるようです。

https://www.huffingtonpost.jp/yuya-yamada/basketball_b_16874376.html

椅子を引く、よくあるイタズラで、国体を目指していた僕は寝たきりになった。そして...

この日(2014.7.2)から俺の人生はガラッと変わった。

www.huffingtonpost.jp

たとえばこういう記事を通して「椅子を引くいたずら」が笑い事ではないことが周知され、定着したようです。

質問者さんが想定している暴言やハラスメントという「芸」も、現実社会であまりにも多くの暴言やハラスメントでの被害が起き、それによって「それは笑い事ではない」という規範が定着していったのではないでしょうか。

まとめるとこうですね。

1.新しい出来事(バナナの皮)が現れる

2.それが危険でないと認識されている間、演じられる

3.それが危険であることが通念となると、禁止されたり演じられなくなる

なので「架空のものであるから楽しめる」のではなく、「それが禁じられていない、身近な危険として認知されていない間は楽しめる。そして楽しめなくなると禁じられるか、売れないので演じられなくなる」のではないでしょうか。

他にもフードファイターの真似をした子どもの窒息死を通してフードファイターの出番がほぼなくなり、

日本国内でフードファイターとしての仕事がなくなったと書く本を知っています。

それが危険であると周知されると、それは笑い事ではなくなるのです。

https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784036363704

食べるスポーツ フードファイターの挑戦 - 偕成社 | 児童書出版社

「69本のホットドッグ、93個のハンバーガー、110本のソーセージ……1日かけても、1週間かけても、食べられそ

www.kaiseisha.co.jp

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