「批判と誹謗中傷は違います」というのが模範回答なのですが、もはやそういうステレオタイプな理想論をぶってても何の解決もならないところまで来ていますよね。21世紀の政治の季節の分断は深刻です。
単なる批判であっても、その批判の数が大きくなれば、批判されている側への圧はどんどん強くなります。実社会であれば、数十人数百人に囲まれて批判される機会など普通はないでしょう。しかしSNSでは数十人数百人どころか、時には数千人に囲まれて批判されるという場面が起きる。こういう場面のときに「批判と非難は違う。あなたに向けているのは正当な批判だ」と批判の刃を向けてる側が主張しても、批判されてる側から見れば「そんなのどっちでもいいよ!この取り囲んでる人たちどうにかしてよ!」です。
こういう構図は、実は半世紀前にはありました。1960年代の学生運動時代には「総括」などという批判の場があり、同じようなことは中国の文化大革命でもひんぱんに行われていたのです。壮大な中国SF「三体」は文革のシーンから始まりますが(ネットフリックス版のドラマはこの冒頭のシーンを踏襲しています)、まさに主人公の父親の大学の先生が大人数に批判されるシーンが描かれています。
しかしこのような群衆暴力にたのむ革命運動は、やがて先鋭化して消滅せざるを得ません。なぜなら自分がいつ群衆暴力の対象になるのかわからず、全員が最終的にはつねに脅えて暮らさざるを得ないからです。そんな恐怖社会に持続可能性はありません。だから1960年代の革命運動はリンチの嵐の連合赤軍事件とともに終わり、文革は毛沢東の死とともにあっけなく終了しました。
いま起きているのは、まさにこの半世紀前の革命運動のSNSによる再現です。半世紀前の運動が衰退したように、このような攻撃性の強い運動は現代でも衰退して行かざるをえないでしょう。いまはまだ人類がSNSを使いこなしていないために、この古くさい革命運動的な攻撃が蔓延していますが、やがてみんながうんざりして疲れ、そこで少しずつ日常に戻っていこうという動きが起きてきて、それが嫌な残された者たちはさらに先鋭化し、というかつてと同じサイクルが繰り返されて、自然と自滅して終わっていくだろうと考えています。
その先に、もういちどネットにおける民主主義の公共圏をどうすべきかという議論が自然に再燃してくることを個人的には期待しています。