「批判」と「叩く」の違いって、どういうライン分けなのでしょうか。

SNSを見ていると、

「新しい技術を古い人間が批判しているのはダサい」

「どうして批判するのでしょう?」

「ただただ、叩きたいからでしょう。あの人達は分かっていないんですよ」

という、

「意見を同じくする人間同士」による

「意見を異なる、もしくは反対意見を持つであろう人間」への、

揶揄やレッテル貼りがあとを絶ちません。

確かに、自分たちが支持している考え方や思想信条を批判されたり、相いれない思想を持つ人間に反感を覚えたり、つい悪しざまに発言してしまうというのは、「人間の感情」としては理解できます。

しかし、それなりに社会で生活し、子供や後進の模範となることが期待される「大人」や「社会人」という自覚があれば、少なくとも「反対意見や批判=叩きたいだけでしょうね」というのは、あまりにも粗雑なくくりではないのでしょうか。

それに、このような意見表明の仕方では、ただいたずらに分断を広げてしまうのではと思います。

分断を完全に防ぐことは現実的ではないかもしれません。

どうしても人間同士で考え方の違いは出てきますから。

とは言え、一方が一方を、あるいは意見を異にする互いが揶揄冷笑やレッテル貼りの応酬に終始し、ひたすら味方内で

「あの人たちは分かっていないから」

「あいつらは取り残される側だな」

などと分断を深める方向にばかり意見をぶつけ合っていて、本当に良いのでしょうか?

せっかくテクノロジーの発展により様々な人同士が意見を語り合える社会になったのに、そのテクノロジーに向き合う人間・・・とりわけ大人同士がこのような分断や対立を繰り広げていて、果たして後進や子供たちにネットリテラシー教育をすることができるのでしょうか?

ここ数年のネットを観測していて思ったことです。

自分の子供がネットで誹謗中傷や意見の対立によって被害者、あるいは加害者の立場にたって相談されたとき、なんとアドバイスするつもりなのか?

「反対意見のやつは、理解力の無い無能だから徹底的に言ってやれ」

とでもいうのでしょうか・・・?

「批判と誹謗中傷は違います」というのが模範回答なのですが、もはやそういうステレオタイプな理想論をぶってても何の解決もならないところまで来ていますよね。21世紀の政治の季節の分断は深刻です。

単なる批判であっても、その批判の数が大きくなれば、批判されている側への圧はどんどん強くなります。実社会であれば、数十人数百人に囲まれて批判される機会など普通はないでしょう。しかしSNSでは数十人数百人どころか、時には数千人に囲まれて批判されるという場面が起きる。こういう場面のときに「批判と非難は違う。あなたに向けているのは正当な批判だ」と批判の刃を向けてる側が主張しても、批判されてる側から見れば「そんなのどっちでもいいよ!この取り囲んでる人たちどうにかしてよ!」です。

こういう構図は、実は半世紀前にはありました。1960年代の学生運動時代には「総括」などという批判の場があり、同じようなことは中国の文化大革命でもひんぱんに行われていたのです。壮大な中国SF「三体」は文革のシーンから始まりますが(ネットフリックス版のドラマはこの冒頭のシーンを踏襲しています)、まさに主人公の父親の大学の先生が大人数に批判されるシーンが描かれています。

しかしこのような群衆暴力にたのむ革命運動は、やがて先鋭化して消滅せざるを得ません。なぜなら自分がいつ群衆暴力の対象になるのかわからず、全員が最終的にはつねに脅えて暮らさざるを得ないからです。そんな恐怖社会に持続可能性はありません。だから1960年代の革命運動はリンチの嵐の連合赤軍事件とともに終わり、文革は毛沢東の死とともにあっけなく終了しました。

いま起きているのは、まさにこの半世紀前の革命運動のSNSによる再現です。半世紀前の運動が衰退したように、このような攻撃性の強い運動は現代でも衰退して行かざるをえないでしょう。いまはまだ人類がSNSを使いこなしていないために、この古くさい革命運動的な攻撃が蔓延していますが、やがてみんながうんざりして疲れ、そこで少しずつ日常に戻っていこうという動きが起きてきて、それが嫌な残された者たちはさらに先鋭化し、というかつてと同じサイクルが繰り返されて、自然と自滅して終わっていくだろうと考えています。

その先に、もういちどネットにおける民主主義の公共圏をどうすべきかという議論が自然に再燃してくることを個人的には期待しています。

4か月

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佐々木俊尚さんの過去の回答
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