質問の内容は、政治だけでなく日本の司法(行政)に関わる重要な論点を含んでいます。まず質問に含まれる用語から考えてみましょう。

 この質問では、逮捕を指して「刑事処分」という言葉が用いられています。しかし、その性質上「処分」は過程の最後の決定、処理に用いる言葉です。刑事処分の場合、裁判の手続きを経て科される刑罰のことを指します。一方で逮捕というのは、刑事手続きの中途の捜査上必要な処置のひとつに過ぎず、これを「刑事処分」と表現するのは本来間違っているはずです。

 しかしながら、日本での逮捕は、留置場での長期に渡る身体的拘束を伴うのに加え、報道等でも逮捕者は犯罪者扱いで社会的制裁の色合いが非常に強くなります。一方、逮捕拘留を伴わない在宅起訴であれば、同様の罪状で起訴されて似たような刑事罰となっても扱いが大きく異なったりします。言ってみれば、逮捕に比べて“犯罪者感”はかなり薄くなります。そして不起訴であれば、何ら罪を犯していないかのように扱われたり、本人もそのように振る舞っていたりしますよね。

 つまり、日本での逮捕はそれ自体が事実上の罰則となっているわけです。そうすると、逮捕や起訴など、警察、検察が行う刑事上の手続きをも刑事「処分」と一般に表現することは、言葉としては理に適っているとも言えます。

 逮捕が罰則だとすれば、検察が人を罰する権利を握っていることを意味します。したがって、検察はその判断を慎重にしなければならないことは確かです。多数の議員や関係者を逮捕して国政を乱すことを躊躇い、政治のことは政治で処理してくれよと投げることは考えうることです。ただ、このような慎重さを発揮できることの裏にある、広い裁量が問題です。

 明文化されない、外付けで規定されない事実上の裁判権を行使しているのですから、裁判所の判決がそうであるように、何らかの基準を提示したり、決定の背景を説明させたりする仕組みは必要です。今回の事件の捜査と「処分」もそれぞれ何らかの理由や意図があるはずですが、それは公知されないため多くは推測するしかありません。ですので、ここで質問に明確に回答することはできず、数々のメディア、評論家等の邪推と同程度のことしか言えません。

 よく言われるように、事件関係者内の「処分」の軽重は、金額の多寡や悪質性によって違うのではと考えることはできます。ただ、金額が少ないと言っても相対的なもので、一般の感覚では高額と捉えられることが多いでしょう。有権者への金品供与に比べると、組織内の資金の流れの乱れは悪質でないと考えることもできます。しかし、政治、立法が意図をもって制限、禁止しているものを(逮捕、起訴しないことにより)「罰」っしないような態度は、越権とも捉えられる余地があります。

 権力の行使は、法に基づいて制御されなければなりません。それが法治主義というものです。今回の事件の「処分」は、日本には人治主義的な権力行使が広く採用されている、そういう一例として考えるとよいのではないでしょうか。

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