それは儒学の内容とかかわります。
そもそも儒学がうまれたころ、つまり孔子の時代というのは戦乱期です。孔子は、日々つづく戦乱をみすえながら、どうやったら平和になるんだろうと考えました。そこでかれは、「礼」(秩序)の維持が重要だという結論にいたります。秩序を維持するには、人間関係が整理されねばなりません。
でも、たとえば質問者さんは周囲の人たちと毎日仲好くやれてますか?個々の人間関係すらうまくいっていないのに、世界平和なんてムリですよね。ところが生まれてこのかた、だれとも衝突しなかった人なんて、たぶんいませんよね。僕なんかは度量が狭いせいか、ほぼ毎日だれかに対する不平不満を心に秘めています(毎日は大げさですが)。となると、個々人がプライベートな狭い範囲の人間関係すら平和に修められていないのに、そんな人間たちがあつまってできた社会の秩序が平和に維持されるわけもない。世の中から喧嘩が終わるわけがないんです。
じゃあどうしよう。これは個々人が身のまわりの人間関係を修め、落ちついて上下関係や平行関係をむすび、そのルールに則って平穏に生きていく努力をせねばならない。その努力が積みかさなり、やがては人間の集団よりなる社会がルールに則り、社会どうしがルールに則るなら、そこに平和が訪れるはずです。ルールに則って、話合いで物事は解決するんですから。
この考え方は、じつは孔子が生きた時代には人気がありませんでした。だって、周りのひとがみんなルールを守らないのに、そのなかで「ルールを守れ」ということには何ら実効性がないからです。
でも、漢代はどうでしょう。武帝期以降になると、ようやく戦争らしい戦争がなくなり、社会は落ちついてきます。そこで政治家は「いまの平和な状態をさらに持続するにはどうすればよいか」を考えはじめます。そのとき儒教は便利な道具だったのです。そしてこの考え方は、社会の上層部にとっても都合の良いものでした。というのも、「ルールを守れ」と民に教えれば、民は現状維持を図ろうとする。そうなれば、社会の勝ち組はずっと勝ち組のままでいられますからね。ほんとはもっと難しい話なのですが、おおざっぱにいえば、僕はこんなふうに考えています。