これは、なかなかに専門的で、むずかしいご質問ですね。
たしかに最近では、研究者のなかでさえ、訓読を重視しない方もおります。しかも、ちょっと専門的なことになりますが、中国古代史の分野ではさいきん簡牘に注目があつまっており、簡牘の文章のなかには訓読しにくいものがあるのも事実。また近現代史の漢文のなかにも、訓読に適していない文章があります。だから学術論文などをみると、漢文原文を引用するさいに、訓読をつける方もいれば、現代日本語訳をつける方もいます。
そもそも中国人は漢文を訓読しませんし、欧米人も訓読をしません。そのまま現代語に訳して読解するわけです。日本人が漢文を読むときにだけ「漢文→訓読→現代語訳」というプロセスを経ており、たしかに煩瑣ではあります。だから訓読なんかに時間をかけるよりも、べつの学習に時間を割きたいという質問者さんの気持ち、ぼくにはわかるところもあります。
ただし結論からいえば、ぼく自身は漢文訓読も重要だという立場です。以下、ぼくなりの理由をのべます。
第一に、訓読はうつくしい。これはぼくの個人的美学にすぎませんが(笑)、けっこうバカにならないと思っています。ぼくの指導経験では、訓読のリズムがわかると、現代日本語のレベルも上がります。同時に日本の古語も学べるわけですから。
第二に、訓読をすると、結果的に一字一句をていねいに読むトレーニングになります。訓読は古代日本から行われてきた読み方で、読み方にはちょっと時代差もあるんですが、蓄積されたルールがある。そのルールに則って読めば、精読に近づけます。英語を勉強するときにだって、塾などで英文法の授業に出ればわかるとおり、「これがS、これがV、これがthat節で……」って、構造を解体・分析して学びますよね?それは一字一句を正確に訳すためです。漢文を読むときにもそれが必要であり、その過程上に訓読があるにすぎません。だから漢文を正確に現代日本語訳できる日本人の方は、基本的にやろうとおもえば、訓読もできるものです。逆に、「訓読はできないけど、現代日本語訳はできるよ」という方の読み方って、正直かなりいい加減なことが多いです。たぶん雰囲気と感覚で訳しているんじゃないかと思います。漢文を母語にする方ならばともかく、我々にとって漢文はあくまでも外国語であり、それは英語と一緒です。だから構造分析が欠かせないんです。構造分析をしないままで外国語を読むという癖がついてしまうのはよくない。だから初学者の段階(だいたい博士号取得まで)では、訓読のトレーニングには意味があると、ぼく自身は思っています。
ともあれ本当に漢文のむずかしさを知りたければ、大学院の授業にもぐるか、進学することをお薦めします。しかもその授業で、なにか古典や簡牘の訳注をグループで作成しているような、専門のゼミがいいですね。たとえばぼくの大学院演習では、伝世文献や簡牘を、うち大学院生や他大学の教員たちといっしょに輪読していますが、さんざん議論を積みかさねても、一致した解釈に至らないなんてことはザラです。しかも、毎週100分の授業を半年積みかさねてわずか500字しか読めないなんてこともしばしば。そういったときに、訓読が重要だと体感できます。こういうトレーニング方法は、中国や欧米ではあまりやっていません。ぜひいちど体験してみるのもいいかもしれません。