ソフトウェアエンジニアの仕事について誤解があるようです。

確かに書けと言われた題材を動くまで持っていく力は大切ですが、それよりもっと大切なのは動いている物を思い通りにする力です。ソフトウェアエンジニアの仕事の9割以上は既に書かれているコードに対して何らかの変更を加える事であって、どこをどう書き換えるべきかという疑問に対して生成AIが具体的かつ正確な答えを返す事は稀です。

敢えて主語を大きくしますが、エンジニアの仕事というのはだいたい「既に何か動いている物があって、それが思い通りではないので何とかしたい」がスタート地点であり、生成AIが得意とする「自然言語で指示が与えられた物をゼロから作る」ではありません。

エンジニアとして働きたい者としては生成AIを敵視するのではなく、エンジニアの仕事の解像度を高め、生成AIが苦手とする分野を理解してうまく付き合っていきましょう。

「禅とオートバイ修理技術」という本から僕が特に気に入っている部分を引用します。

(3)は、実験と呼ばれる科学的手順であり、ロマン的な人間は、時としてこれを科学そのものであると思い込んでしまう。というのは、科学的な方法のなかで、唯一視覚によって捉えられるものが実験だからである。彼らが見ているものは、数多くの試験管や、妙な形をした器具や、数々の発見を成し遂げるために忙しく動きまわっている人々だけで、その実験を雄大な知的プロセスの一環としては見ていない。だから実験と証明を混同して、それらが同じものだと思ってしまうのだ。五万ドル相当に及ぶフランケンシュタインの実験器具を陳列して、世間をあっと言わせるような科学ショーをやってのけるような人物は、たとえその結果がいかなるものになろうとも、決して科学的な実験行為を行っているとは言えない。だが一方、バッテリーの具合を調べるために、ホーンを鳴らして確かめようとするオートバイの修理工は、正式とは言えないが、実際科学的な実験を行っていると言える。すなわち生じた問題点をもとに、一つの仮説をテストしているのである。「実験は失敗に終わった。期待通りにはいかなかった」というせりふは、テレビドラマに登場する科学者がよく口にする不幸なせりふだが、実はこの不幸の原因は、お粗末な台本作家にあるのだ。予想した結果が得られなかっただけでは、決して実験が失敗したことにはならない。実験が失敗に終わったと言えるのは、さらに、問題となっている仮説が十分にテストされなかったり、また実験によって得られたデータが何ひとつ立証に値しない場合に限られる。

生成AIによってたちどころに何らかの生成物が得られても、それは科学ショーに過ぎません。科学を構成する仮説の立案と検証を繰り返す雄大な知的プロセスの中においては生成AIがサポートできるのは一部に過ぎません。特にプログラミングに限って言うとブライアン・カーニハンによるこんな名言もあります。

“The most effective debugging tool is still careful thought, coupled with judiciously placed print statements.” — Brian Kernighan, “Unix for Beginners” (1979)

最も優れたデバッグツールとは依然として注意深い思考と組み合わせて慎重に配置されたprint文である。 ブライアン・カーニハン, "初心者のためのUnix" (1979)

この本は古いですが依然としてソフトウェアエンジニアリングにおける重要なポイントを示唆しています。眼の前のプログラムが自分の思った通りに動いてくれない事はプログラマにとっての日常です、そこで何故思った通りに動いてくれないのかを具体的に立証する方法を立案する過程を生成AIは教えてくれません(デバッグに関する一般的な事は教えてくれますが)。たくさん学習させたら帰納的にできるようになるかも知れませんが、それを学習させようにも製品コード自体がそもそも膨大ですし、仮説と被疑箇所に基づいたprint文なんて製品コードには残っていないので学習する為のデータセットを集めるだけでも一苦労です。よって「眼の前のプログラムを望む仕様通りにしてくれる」という生成AIが登場するのはずっと先ですし、仮に仕様通りに動いてもそれを確認するテストやQAの仕事が生成AIに取って代わられるのは更に先の話です。

まとめると、僕の意見は「科学的手法(仮説立案・実験・考察)を身につければ少なくともしばらくは生成AIにとって代わられない仕事ができる」です。

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熊崎 宏樹さんの過去の回答
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