拙著をお読みくださり、ありがとうございます。お返事がとても遅れてしまってたいへん申し訳ありません。
描かれた祈りのシーンからキリスト教に魅力を感じ始めたことに関して「純粋な信仰」といえないのではないかと気になさっておられますが、結論からいいますとそのようなことを気にする必要はまったくありません。
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私にはクリスチャンの知人がたくさんおりますが、キリスト教や聖書を知るようになったきっかけや、信仰を得るようになったきっかけというのは人それぞれであり、本当に多様です。
恥ずかしくて人には言えないようなこと、社会的に非難されるようなこと、極悪非道な行い、とんでもない失敗……そういったことがきっかけでクリスチャンになった方はたくさんいます。
自分の救いを求めることや、教会に通うこと、聖書を読み始めること、そういったことのためにもしも「誰からも非難されることない純粋な信仰」が必要だとしたら、ほとんどの人がクリスチャンにはなれないのではないかと想像します。
それは、ちょうど、病院にいって医者に病気を治してもらうためには完全な健康体でなければならないというようなものです。それは矛盾しています。病気を治すために必要なのは、自分が健康であることではありません。そうではなくて「自分はまずい状況に陥っていて、このまま自分一人ではとんでもないことになってしまう。助けが必要だ」と気付くことです。
いま話した病気のことはたとえ話ですけれど、ゆえなきたとえ話ではありません。なぜなら、聖書の中でイエスさま自身が「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」と語っているからです。
あなたは自分の心が荒廃していて、もしかしたらキリスト教や信仰や聖書によって何かが変わるかもしれないという気持ちと、また変わることはできないのではという気持ちを持っていらっしゃるとのこと。聖書が私たちに伝えているキリスト教は、まさにあなたのような方のためにあります。
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ここでキリスト教のすべてをあなたにお伝えすることはできませんが、一つあるのは「自分」との付き合い方が変わることを恐れないことだと思います。自分を軽く見ろというのではなく、自分の判断が絶対的だと思うことをやめるという意味です。
「私のこんな信仰は不純である」という判断を自分が下すのを保留する。
「こんな私が信仰などしてもいいのだろうか」のような判断を自分が下すのをいったん保留する。
「こんな私は何をやったとしても変わりっこない」という判断を自分が下すのを保留する。
自分が自分を見る視点をいったん保留した上で、聖書に書かれている神さまの言葉に耳を傾けます。自分がどんな人か、自分が何をするか、自分が何をしたかではなく、神さまがどんな方であり、神さまが何をしてこられた方であり、神さまが何をしてくださる方なのかを知るのです。
自分が厳しい状況にいるときは、神さまに心を開く機会となります。なぜなら「自分はまずい状況に陥っていて、このまま自分一人ではとんでもないことになってしまう。助けが必要だ」と心の底から思うことができるからです。
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私は二十代でクリスチャンになりました。クリスチャンになる前には大変なところをたくさん通ってきました。クリスチャンになってからも、人生にはたくさんの困難がやってきます。クリスチャンになったからといって人生に困難がなくなるわけではありません。
しかし、はっきり言えるのは、私がもしも二十代でクリスチャンとなる一歩を踏み出さなかっら、現在のような幸福な人生を歩むことはできなかっただろうということです。困難がなくなるわけではないし、自分が失敗しなくなるわけでもない。しかし、私はイエスキリストの救いによって「いつも喜び、たえず祈り、すべてのことに感謝する」という、この上ない幸福な人生を歩んでいるのです。
主なる神さまが、あなたの信仰を正しく導いてくださいますように祈ります。
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◆聖書の言葉
◆聖書を読みたい・教会へ行きたい
◆豊かな人生のための四つの法則
https://www.hyuki.com/four/laws
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