伝統的な日本料理の世界では、ソースに当たるものは案外種々あると思います。ただしそれは最終的に「和え物」の形を取ることも多いですね。白和え、胡麻和え、酢味噌和えなど。
もちろんもっとソースらしいものもあります。酢の物の合わせ酢はヴィネグレットソースにあたるものですし、南蛮漬けは構造として油淋鶏と同じです。煮魚は煮汁の味を魚に染み込ませるというよりは濃く煮詰めた汁を魚に付けながら食べる料理ですが、これはローストビーフとグレイヴィソースの関係に似ています。
その他煮物の汁は自動生成型のソースであり、カレーのグレイヴィと同じだし、天ぷらの天つゆは実にソースらしいソースです。
ただし日常的なケの料理においては、それらが全て「醤油のみ」で解決されがちです。醤油という調味料が優秀すぎるからでしょうか。例えばほうれん草が目の前にあった時、それをおひたしにするか胡麻和えにするか白和えにするか、といった選択肢は多々あるのですが、多くの場合、醤油をかけておかかをのせる、くらいで手を打つかもしれません。家庭料理は最短ルートを取るものなので、醤油だけで十分おいしければ粘菌のようにそのルートを辿るのは必然です。
この最たるものが刺身だと思います。日本で醤油が作られる前は、煎り酒や蓼酢など様々な刺身用ソースがあったわけですが、それらはおおむね醬油に駆逐されました。醤油強すぎです。
明治以降に西洋料理が伝わり、それがカツレツなどの日式洋食にアレンジされた時には、少し特殊なことが起こりました。日本人は醤油の代わりになるものを求めたのです。そこで採用されたのがウスターソースです。イギリス生まれのウスターシャーソースが日本人好みのあまからい「おかず味」に改良されました。そこで、従来の和食に何でも醤油をかける習慣が、洋食には何でもウスターソースをかける習慣に置き換わった構造です。
アジフライやとんかつがソース無しにはおかずとして成立しない、というのはある意味で当たり前なのであり、つまりそれは刺身は醤油無しでは成立しない、というのと同じことです。
ただし質問者さんの違和感も分かります。何らかのソースありきで成立する料理でも、もっと工夫の凝らされたソースが「たっぷり」絡む方が「ご飯がすすむ」のではないか、という話ですね。
なぜ日本食がその方向に進化しなかったかと言うと、そこでは味噌汁の存在も大きかったのではないかと思います。今でこそ味噌汁はほぼ純然たるスープですが、かつてのそれはもっと塩分濃度も高く、おかずの主役でした。これはゲーンやカレーのポジションと同じであり、つまりご飯を食べるための最強のソースです。ミールスやダルバートがグレイヴィとドライの組み合わせで成立するように、日本の定食も汁気のあるおかずと汁気のないおかずのバランスで成立する以上、味噌汁以外のおかずはドライ寄りに整えられる引力が働きそうです。
現代ではそれに加え、日本人の食感嗜好もソースの発達を良しとしなかったところがあるのではないでしょうか。特に揚げ物は、そのクリスピーさをなるべく損なわずに食べたいのが現代人の傾向です。これは、素材の味をなるべくそのまま味わいたいという古来からの心情とも親和性が高い。
とんかつがまだカツレツと呼ばれていた時代は、ウスターソース意外にもトマトソースやデミグラスソースなどのバリエーションがありましたが、これも現在ほぼウスターの発展系であるとんかつソースに駆逐されつつあります。
結局日本人はどこまで行っても、極めて濃い味のソースすなわち醤油をちょこんと付けて食べる、という様式を中心においてしまうのではないでしょうか。そこにさらに、醤油に甘みとうま味を徹底ブーストした麺つゆや、醤油には無い油脂分を補うマヨネーズといった、これまた優秀すぎる調味料が加わり、それ以上の発展はさほど強くは求められていないのが現代の状況なのではないかと思います。