いい質問ですね! さて、この分野は先行研究といえるものがごく限られたものになるでしょうから、
その範囲を確認するのをおすすめします。
おそらく最初に読むべきはこれでしょう。
『倫理のパフォーマンス イソクラテスの哲学と民主主義批判』
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10014472.html
この本はプラトンと同世代の哲学者、イソクラテスに焦点を当てた本です。
この本がご質問と関わってくるのは、まさにこの時代に本が定着し、
議論(すなわち音声の言葉)と書籍(すなわち文字で表された言葉)、
どちらが優れているのかということが真面目に議論された時代だからです。
いくらかこの本の読書メモを共有しますね。
語られる言葉は「魂のうちに知識とともに書き込まれる言葉(276A)」であり、
「自分自身のみならず、これを植えつけた人をも助けるだけの力をもった言葉」(277A)である。
それに比べ、書かれた言葉は「むなしく水の中に書き込まれる(276C)」もので、
「自分だけの力では身を護ることも、助けることもできない(276C)」し、
「書かれた言葉のなかには高度の確実性も明瞭性も存在しえない(277D)」のだ。
プラトン『パイドロス』より
前掲書は上記のような議論や、
とはいえ、私は、説得にかかわる言論のうち、語られるものと読まれるものとはどれほどの違いがあるかを、
それにまた人びとはみな、前者は重要で緊急な事がらについて語られるものだが、
後者は演示のためや個人的利益のために書かれるものだと見ていることを、よく心得ています。
イソクラテス『『ピリッポスに与う』』
のようなプラトンとイソクラテス、そして同時代の別の哲学者、ソフィストにも触れてくれています。
特にプラトンの引用が面白いですね。
現代の我々はプラトンを本で知ります。
しかしプラトン自身に言わせれば本は(書かれた言葉は)、
「自分だけの力では身を護ることも、助けることもできない(276C)」し、
「書かれた言葉のなかには高度の確実性も明瞭性も存在しえない(277D)」
そうです。これはやはりプラトンの師ソクラテスが弁論で(もちろん話し言葉で)自身を守ろうとしたのに比べ、
「反論」がすぐに行われない散文は「法廷で自分や仲間を守れない」と意識した上での発言なのでしょう。
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さて、私自身の回答としては
「音声で表された言葉と、文字で表された言葉」は別物であるとしておきましょう。
上記のように、かつては優劣を競うことができるぐらいには別物だったのですから。