以下に書くのは個人的な素人考えに過ぎません。

「ギフテッド」と呼ばれる人たちが存在することは知っていますし、その能力の一部を垣間見ることはしばしばあります。ただ、「ギフテッド」という名前があるために、「ギフテッドか否か」という二値的な発想になるのはまずいだろうなと思います。

システムやルールが有効に働くのは、比較的類似性が高い多数の人に対してではないかと思います。「ギフテッド」と呼びたくなる人たちの能力が非常に高いという意味では共通しているかもしれませんが、その分だけ固有の特性も強いことは想像できます。ですから、あまりシステムやルールによって「管理」や「伸ばしてやる」というのはそぐわないように思います。むしろシステムやルールから外れたとしても大丈夫であるという社会の認識が大事なのではないでしょうか。

この年代の子供はこうでなくてはいけないといった画一性から外れたとしても、寛容に受け入れられることが大事ではないかと思います。

システムやルールという意味では、いったん既存のルートから外れたあとで、もとのルートに戻れるパスがちゃんと存在するようなシステムやルールであることが望ましいと感じます(といっても、そのさじ加減は難しいこともまた想像できますけれど)。

そして、「この年代の子供はこうでなくてはいけない」という画一性から外れても寛容に受け入れられる社会というのは、ギフテッドな子供たちに限らず、多くの子供たちにとっても生きやすい社会じゃないかと思います。

既存のルートからいったん外れても、もとのルートに戻ることができる社会はまた、子供に限らず大人にとっても住みやすい社会でしょう。

各論になってくると困難な問題や、線引きが難しくなるとは思いますけれど、総論としては「多様性を尊重し、互いに寛容である社会」ということになるんでしょうね。

2年

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