「社会の歯車になりたくない」という表現があります。歯車を「社会の一部として埋没して生きる」というようなネガティブな意味で使い、社会のためにひたすら働いてすり減るだけというイメージです。しかしこの表現に対し、「歯車で何が悪い」という反論があります。
なぜなら歯車は、ひとつでも欠けてしまったら全体のメカニズムが動かなくなってしまうから。機械式の時計の裏蓋をこじ開けて、歯車をひとつ取り外してしまうと、時計はもう機能しません。歯車はたしかに「全体の中のパーツにすぎない」と埋没しているように見えますが、同時に全体を動かすためにかけがえのないパーツでもあるのです。
そう考えれば、21世紀の複雑な現代社会は、ありとあらゆる大小の歯車から構成されて、かろうじて駆動している巨大な機械であるとイメージすることもできそうです。言い換えれば、この社会で仕事を選ぶというのは、どの歯車になるのかを選択するということもである。大きくて目立つ歯車もありますが、隅の方に位置して小さく隠れがちな歯車もある。しかしどちらも、欠けたら全体が駆動しなくなるのは同じ。
21世紀の社会は複雑で多層ですが、いっぽうで社会の隅々までそのメカニズムや構成が「見える化」されている社会でもあります。自分の目の前の仕事をただ淡々とこなしていくこともできますが、その仕事が他の仕事やさらには社会全体にどのような影響を与え、どのような位置にあるのかを、ある程度は理解できるようになってきている。これはSNSによって一般社会のさまざまな人の仕事が可視化されるようになったからこその新しい視界でしょう。
最近はセクシー女優やグラビアアイドルの人たちが攻撃されていますが、彼女たちの発信を横断的に読んでいると「自分たちは人々に価値を与えている」というプライドを持たれていることを強く感じます。どんな仕事であれ、社会と接続し、さまざまな人々と相互作用を起こして、良き歯車として社会を構成しているのだなあと感じさせられます。ピッチャーで4番っであろうが、セカンド7番であろうが、それぞれが必要な役割を担っている。ただ目立ちやすい/目立ちにくいという格差が生じるのは、ある程度は仕方ない面もあると思います。
つまるところ現代社会というのは、無数の歯車と歯車が接続された、膨大な相互作用の集合体なのでしょう。あらゆる歯車は目立つと目立たざるとに限らず、関係性はフラットなのです。しかしそういう現代の全体像がわからない人は、社会のあらゆる局面をヒエラルキーや上下関係で見てしまう。
こうした人たちがマイノリティに対して「被害者像を押し付けている」と批判されることがありますが、これはマイノリティを擁護しているように見えて、実はマイノリティを社会の「下」と見ているという、「上下関係で社会を認識する」という古い世界観の裏返しなのではないかと思います。