ナイーブな関東人さんの質問を見てたまらない気持ちになり、私も質問いたします。

私は、学生時代に関西出身でよその食文化全sageの教授に濃口醤油文化を激しくdisられた経験から闇堕ちした、醤油の町出身の関東人です。

一昨年大阪に転勤を命じられ、業務内容的に(よほど会社が大きく変わらなければ)もう10年は、あるいは定年までこちらで働くことになりそうです。

全国チェーンのお店の多い地域で自炊メインで生活しているので普段の生活では大きな問題は感じないのですが、闇堕ちして既に十余年経って当時負った傷も大分癒えましたし、適当に入ったうどん屋さんで「大阪の淡い色の出汁でいっぱいのうどんも美味しいな、別物だけどこれも良いじゃない」などと思うといちいち我が心の闇が「今の文言を取り消せ特に前半」と燃え盛るのは面倒ですし、私もいい加減淡口醤油と和解したくなってきました。

試しにヒガシマルの淡口を買ってこちらのようなうどんつゆを作ってみたり、出汁を使うタイプのお浸し(長いこと、お浸しとは茹でた青菜を絞って鰹節をのせて濃口醤油をサッとかけ回すものだと思って生きてきました)を作ってみたりして、これはこれで美味しいねと思うようにはなりましたが、淡口醤油そのものの良さはまだよくわかりません。

何かもっと淡口醤油と仲良くなる手段はないでしょうか。うどんもお浸しも同じ料理名で全く別物と感じるので、「これは淡口でなきゃ!」「淡口があって良かった!」というものを見つけられていません。

未だに「関東は真っ黒のうどんつゆで〜」などと揶揄するタイプの関西人は存在しますが、うっかりエンカウントしてしまってもまた濃い闇に飲まれたくないのです。もう一つ何かを掴んで、いつか闇から抜け出したいのです。

昔の食エッセイを読んでいると、食べ物に関して東京sage関西ageが結構な頻度で語られています。今の感覚で見ると「いい大人が何やってんの」と思いますが、当時は今ほど味覚の関西化は進んでいなかったわけで、著者である当時の流行作家を始めとする文化人たちにはそれを啓蒙する役割もあったのでしょう。

何かを褒めるために別の何かを貶すのは良くないというのは、今でこそ常識になりつつありますが、当時の文士たちというのは破天荒でアウトローなキャラも求められていました。また、何事も黎明期においては、その話法が最も人々に伝わりやすい。教授氏はそういう文化にもろ影響を受けた世代でもあったのかもしれません。

 

さて、淡口醤油がその存在意義を遺憾なく発揮する場は、なんと言っても割烹の会席(懐石)料理です。そこには、色だけでなく味においても淡口醤油じゃなきゃなんともならない世界が広がっています。この世界にハマれば問題は一発で解決します。

出汁と淡口醤油がこういった関西割烹料理(日本料理)の基本ですが、それが象徴的に現れるのが野菜の煮物であり、それは家庭でも比較的簡単に近いものが再現できます。

まずは八方出汁を用意します。元々は出汁・淡口醤油・みりんが8:1:1(外八)ですが、これは現代の感覚では濃い目なので、12:1:1(外十二)くらいまで伸ばす方が普通かもしれません。僕はやや甘さを抑えて12:1:0.8に落ち着きました。うどんつゆなどそのままゴクゴク飲むような場合は、さらに出汁16まで伸ばします。

何せいったん沸かしたこの外八〜外十二の八方出汁に、水で下茹でした野菜を浸すのが割烹の煮物です。八方と野菜は重量比1:1を目安に、野菜がすっかり浸るようにします。(浸りきらなかったらキッチンペーパーで覆うという技もあります。)これを数時間から一晩置いて野菜に味が浸透したら完成です。外十二の場合、計算上全体の塩分濃度は0.8〜0.9となり、ご飯のおかずとしてではなくそれだけを食べる、あるいは酒肴として、実に理にかなっています。

この際に割烹では、野菜の種類によって少しずつ濃さを変えたりもします。人参や牛蒡は濃い目、蓮根や芋は中くらい、大根や蕪なら薄め、みたいな感じです。これらを一碗に取り合わせ、さらに海老か鮑か穴子でも添えたものが「たきあわせ」です。もちろん家庭ではそこまでやる必要はありません。全ての野菜をいっぺんに同じ八方出汁に浸せばよいのです。もちろん野菜は一種類でも構いません。

これは、濃口醤油と砂糖を使って汁気が減るまで煮る関東風の煮物とは全くの別物と言えるでしょう。もちろん、どっちが上で下でという話ではありませんが、割烹風の方は、淡口でないとなんともならないというのは間違いのないところです。たいへんおいしくて、毎日でも食べたい、日本料理ならではの煮物です。

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