それは確かにその通りかもなあと思います。
マグドナルドにせよサイゼリヤにせよロイヤルホストにせよ、案外「隙」があるんですよね。それは、開発者の周縁的な趣向がポロッとそのまま商品化されたり、そこにあえての啓蒙的な意図もあったり。そしてそれ以上に、昔からあるメニューが現代の最適解にはそぐわないものとなっていても、律儀にそれを出し続ける、というパターンはよくあります。ロイヤルホストは特にそんなオーパーツの宝庫ですね。コスモドリアとか。
そういった隙こそが、周縁の民にとっての魅力になる。逆に(最近のゼのように)そんな隙が薄れてしまうと、終焉の民は興味を失う。しかしビジネスとしては隙は無い方がいいはずです。少なくとも全国チェーンの規模であれば、最適解に特化するのが最も効率がいいはずだからです。
吉野家の牛丼は、昔から「牛丼としては比較的あっさりした上品な味」というポジションだったのではないかと思います。ある種洋食的なハイカラさも備えたそれは、食のプロが集う築地だからこそ支持され、やがてそれが全国のスタンダードになった。
僕が初めてすき家に行ったのは、25年ほど前のことです。「すき家で食べたらもう吉野家なんて行けないよ」と主張する友人に連れて行かれました。その友人は「すき家に行けない時は、コンビニの牛丼がそれに近い」とも言っていました。
僕はすき家の牛丼の味の濃さにびっくりしました。正直僕の好みではありませんでしたが、これにハマる気持ちはとてもわかりました。そして、確かにこれは多くの人を魅了しそうだぞ、と思いました。僕だって、出会うタイミングによってはどハマりしたかもしれません。
すき家のその味は、吉野家に対抗するものだったと言えますし、もしかしたらかつて吉野家が蹴散らした、がっつり醤油味の牛丼に回帰したものとも言えたのかもしれません。しかし対抗にせよ回帰にせよ、それは結果的に、時代がより求める味に即したものになっているという印象は受けました。「みんなこういうの好きそうだよなあ」みたいな感じです。そして実際その後、大躍進を果たしました。
コンビニの牛丼がそれに近い、というのも、やはりそういう味がウケるという判断に基づいた開発だったのでしょう。ただ僕自身はその友人の話を聞いたことで、今に至るまでコンビニの牛丼には一度も手を出したことがありませんし、すき家にもほぼ行っていません。もちろん優劣の話ではありません。ノットフォーミーかどうかという、個人的な嗜好・価値観の問題です。
僕がすき家にハマらなかった理由のひとつに、かつて吉野家よりむしろ好みだった、なか卯の牛丼の存在があったかもしれません。
なか卯の牛丼はかつて、吉野家よりさらにあっさりしたものでした。牛丼と二枚看板であるうどんも、揚げ玉入りのそれが「たぬき」ではなく「はいから」と呼ばれていたことが象徴するように、バリバリの関西文化圏的な店だったのです。
それがゼンショー傘下に入り、牛丼はある時いきなり、信じられないくらい甘くて濃い、全くの別物に生まれ変わりました。
かつてのなか卯の、見た目からして白っぽいあっさり牛丼は、それはそれで吉野家と差別化できていたと思います。しかしゼンショーはそれをそのままにはしなかった。
その時点で吉野家の牛丼は、既に最適解ど真ん中からはややズレ気味だったと思います。しかし長年主流であり続けたが故に、全国にわんさか支持者がいて、相変わらず支持され続けてきた。昭和の時代は「今日はちょっくらパワフルに行くか」という時に食べられていた吉野家の牛丼は、今は「今日はあっさり目のものがいいなあ」という時の選択肢にスライドすることで、結果的に人気を維持しているという気もします。マックのシンプルなバーガー類と似た推移かもしれません。
だからなか卯の、そこから更に周縁寄り、下手したら完全に最適解から外れかねないかつての薄味牛丼を、ゼンショーはあっさり手放したんだと思います。
そして、ちょっと濃くしたら吉野家とかぶるだけ、さらに濃くしてもすき家とカニバる、ならばその先まで行っちゃえ、という感じで生まれたのが今のバージョンだと思います。うどんのつゆも、いつのまにか過去とは全く違うものになっていました。
すき家の方はその後、チーズ牛丼という大傑作を生み出しました。ゼンショーとしての最近の話題が、ロッテリアの一部店舗をゼッテリアという冗談のような店名で生まれ変わらせたことです。はま寿司に行くと、とにかくやれることは何でもやって痒いところに手を届かせる、執念めいたものを感じます。
変化を恐れずに、徹底した顧客至上主義で最適解にアジャストしてくる、それはグループ全体の社風みたいなものなのでしょうかね。