匿名

この事件には研究上の競争、組織事故、そして科学広報/メディア社会学といった非常に多様な側面がありますが、なんといってもまず重要なのは、先行するiPS 細胞の科学的/社会的成功という側面です。実際単に生物学史上の意義のみならず、科学コミュニケーション的意味でも、iPS 細胞の成功は驚異的で、戦後メディアを賑わせた科学的トピックから言っても、それこそ戦後すぐの湯川秀樹・中間子とノーベル賞受賞から始まり、近年のはやぶさブームといったものに並ぶ話題となったものです。STAP細胞にまつわる話は、このiPS 細胞研究の大成功に対する挑戦といった意味合いが強い。もちろん研究者がこうした成功例を超える新たな発見をしたいと考えることは何の問題もないですし、実際iPS細胞を作るためのいわゆる山中ファクターと言われる四つの遺伝子の中にはc-Mycという癌遺伝子も入っており、初期にはそれが弱点と考えられていた面もあるので、もしそうした手続きを経ずに初期化できるとすれば、それはある意味革命的なわけです。こうした文脈でSTAP細胞の研究チームがそうした大発見をした、と考えた点まではまだ後戻りができたのしょうが、その後この研究グループはやや勇み足をし、それが結果として大騒動になったと思われます。

後の様々な報告を読むと、普通これだけの大きな成果なら、慎重を期して研究所内で規定された一定のプロセスを経てチェックされるはずが、あたかも特急のような形でそうしたプロセスが免除され、公表という形になったようです。その発表時にはっきりしていたのは、 iPS 細胞に対する強いライバル意識であり、まさに上記の欠陥をSTAP細胞は乗り越えるという主張もありました。またメディア受けを狙い、主要研究者に白衣でなく割烹着を着せてみたりして、一時的にいわゆるリケジョブームが盛り上がったりと、必要以上にメディア的話題を盛り上がるように宣伝していました。結果それがあだになり、逆風と転じた時に強烈な世論の(気象用語でいう)ダウンバーストを呼び、大騒ぎになってしまいました。

テクノロジーのダイナミズムを研究する期待社会学の分野でよく言うように、初期の期待(ハイプ、熱狂)はしばしば逆風として失望に変わることがあり、そのサイクルをハイプサイクルと呼ぶこともありますが、この場合、自分たちで非常に世論の期待を盛り上げ過ぎた結果、それがアッという間に破裂し、研究者の研究ノートや過去の論文まで徹底的に調べ上げらたりして、研究過程そのものに多くの疑義が生じ、更にバッシングが拡大することになります。メディア、特に日本のそれは、自らの側に正義があると感じると、その正義感を前面に出して総攻撃をするという形をとる傾向がありますが、その例が、最近JAXAのH 3ロケットの打ち上げが一時中断になった際に、ある通信社の記者がそれを失敗と決めつけて顰蹙を買ったケースです。同じ通信社の記者が私が昔書いた、データ捏造問題に関する論文を Google で検索したのか、この事件に関係して連絡してきましたが、いかにも大きな魚が釣れそうといった興奮が見え隠れしてきました。結果、研究内容についてのまっとうな科学的批判に加え、研究所の調査がお昼のワイドショーで生中継されたり、公共放送をも含めて人権侵害としか言えないようなレベルでの誹謗中傷が続き、自殺者が出るまでの事態になりました。

個人的には今回の教訓は複数あり、まず第一に、強いライバル意識をもって新しい研究成果の公表を焦り、内容のチェックがおろそかになり、結果組織事故のように穴が生じ、欠陥ある内容が公表されたという点。第二に自らの成果を必要以上に宣伝することを狙った結果、話題のふくらみが強力な逆風を呼んだという点。第三に、こうした状態になるとメディアは暴走し、抑制がきかなくなるという点です。

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