北海道での印象的な体験を思い出します。

大人数で行った居酒屋で、北海道の海の幸てんこ盛りの「舟盛り」が出てきました。さすがと言う他ないおいしさだったのですが、刺身ばっかりそう食べられるものでもありません。意外とあっけなくみんなの箸の動きは鈍くなり、そして半分近くを残して、箸はすっかりとまりました。

すると店員さんが「じゃあそろそろ」と言って、その舟盛りをいったん下げました。「バター焼きにしてきます」と言うのです。

しばらくして出てきたバター焼きは、もちろん刺身に切った魚介を炒めたものですから、火入れの加減も何もあったものではなく、全てがチリチリのごちゃ混ぜになって帰ってきました。刺身はかなりの量まだ残っていたと思っていましたが、それは中皿にぺたんと盛られた状態で、あっけないほどの貧相な量に変わっていました。

それでも目先が変わるというのは嬉しいもので、再び皆箸を伸ばし始めます。しかし正直、決しておいしいものではありませんでした。魚もイカも貝もスッカスカ。味付けはほぼ醤油のみで、やたらしょっぱい。

しかしそれは忘れられない体験です。刺身は「おいしかった」という記憶しかありませんが、それがその後バター焼になったことで、その一連の流れを僕は「文化」として受け止めたんだと思います。

 

文化とは歴史的な人の営みであり、僕は食べ物そのものの味と同じかそれ以上に、そこに惹かれるんだと思います。だから教員氏の言うことも一部理解します。狭義の文化は都会で生まれ、発展するものであり、それはひたすら洗練されて(そして退廃もして)いくからです。

僕は文化相対主義的なところがありますから、都会の洗練された食文化も、こういった刺身バター醤油焼き的な素朴な文化も、等しく「人の営み」として楽しみます。

ジンギスカンからも味噌ラーメンからもザンギからも、こういった過去からの人の営みの匂いが強く立ち上ります。だから僕は北海道では、新鮮な魚介や寿司よりむしろそういうものを食べたがって、同行者に嫌がられます。

 

こういった文化は、食材が決して豊かとは言えない場所で、四苦八苦の工夫をするところから生まれるものだと思っています。北海道とて昔は厳しい環境を生き抜いて来たわけなので、本当はもっともっとそういう文化があるはずだろうと、そしてそれに触れたいと思うわけですが、どうしてもそれは圧倒的な素材の美味に隠れてしまいます。もちろん外から来た人々が求めるものは、その圧倒的な美味です。

教員氏の発言をあえてポジティブに取るならば、つまりそれは、「おいしくて当たり前の素材の力に頼り、それを誇りにしているだけではダメでしょ」みたいな警句なんじゃないですかね。

「悔しかったら東京みたいな、人が四苦八苦しながら工夫した文化で殴り返してこいよ」

みたいな。

……まあ実際は、刺身のバター醤油焼きなんて食わせた日には、また全力で馬鹿にしてきそうな気もしますが。

7日

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