最初に思ったことは次のような疑問でした。
「将来使わないのになぜ数学を学ばなければいけないのか」と生徒さんが言ったとき、その生徒さんの心にある「数学」とはどのようなものだろうか。
そんな疑問を持ったのです。生徒さんが「なぜ数学を学ばなければいけないのか」のように思うのは、たとえば難しそうな数式を扱うときや、実際の生活には出てこないような問題を扱っているときじゃないかと思います。「ふだん生活していてこんな数式なんか見ないぞ」というわけですね。
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私がささやかながら数学を学んで思うことは、「数学は言葉に似ている」ということです。もっと直接的に「数学は言葉だ」といってもかまいません。数学は言葉の一種であって、世の中の事象や自分が見聞きしたものを、数学的に考えたり、数学的に表現したり、数学的に伝えたりすることを可能にしてくれます。それは日本語が言葉の一種であって、世の中の事象や自分が見聞きしたものを、考えたり、表現したり、伝えたりするのに使えるのとまったく同じです。
日本語を学んでいない人が日本語を使えないのと同じように、数学という言葉を学んでいない人は数学を使えません。ということは、数学的に考えたり、数学的に表現したり、数学的に伝えたりすることで得られるメリットを享受できなくなるわけです。そのメリットをどう評価するかは人や社会や時代によって変わるでしょうね。
ごく簡単な比例計算ができなかったら日常生活で困るだろうことは多くの人が想像できます。もうちょっと難しくなって、複利計算の結果何が起こるかを理解できなかったら別の意味で困ることが起きるでしょう(ただし、比例計算のときよりもそれを理解できる人数は激減するでしょう)。もちろん「理解できなかったら困る」だけじゃなくて「理解できることでメリットがある」ともいえます。
その「比例計算」と「複利計算」の二つの結果をさらに延長すると、より難しいとされる数学的概念を理解すればより大きなメリットがありうることも想像できます。
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メリット/デメリットのように実利的な側面だけで考えるのは適切ではありません。「数学は言葉だ」ということからもいえることですが、数学的な考え方は大きな喜びをもたらし、生活を豊かにしてくれるものです。それは日本語を学ぶことを通じて、大きな喜びが得られ、日々の生活が豊かになるのとまったく違いはありません。違いがあるとしたら、数学を通じて得られる喜びを知っている人数が(日本語に比べて)少ないことでしょうか。
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と、ここまで書いてきて最初の私の疑問に戻ります。生徒さんの心にある「数学」がもしも、「与えられたテスト問題を解くことが数学である」とか「わけがわからない数式の変形を学ぶことが数学である」といったものならば「なぜ数学を学ばなければいけないのか」と感じるのも無理はありません。
本来ならば「数学がなければ表現すらできないような事象を正確に表現し、それを詳しく調べ、解析し、問題解決することができる」という側面をよく理解してもらえたらいいのですが、それを理解してもらうことはなかなか難しいですね。数学そのものでてんてこまいしているときに、それ以上の省察を要求することになるからです。
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もちろん、数学が背後で使われている応用分野をリストアップすることは、生徒さんの疑問に答える一助になるかもしれません。たとえばスマートフォンをはじめとするコンピュータや、インターネットや、ありとあらゆる科学技術の根底には数学があることは伝える価値があるでしょう。
でもそこから「コンピュータやAIが難しいことを解決してくれるなら、人間が数学をやらなくてもいいじゃん」のような認識を持つ人もいるでしょう。
私としては「数学は言葉だ」と認識するなら、コンピュータやAIがどうなろうとも数学を学ぶ価値があると思っています。「言葉」を学ぶ意味はないとなってしまえば、それまでですけれど。
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以上、だいぶ散漫になりましたが、思うところを書きました。