ご質問の英語の冠詞などを含めた言語の文法項目というものは、「ないと困るから存在する」というよりも「種のようなものがあり、それが育っていく」ものなのではないかと考えています。以下、主に定冠詞(英語の the)を念頭に回答しますが、不定冠詞(a, an)もおおよそ平行的に議論することができます。
日本語には確かに冠詞に相当する文法項目はありませんが、それでも特に困っていないので、他の言語も冠詞なしでやっていけるはず、と思うのは自然です。実際、英語の歴史を遡ると、古英語や中英語では冠詞は(「なかった」とは言い切れないものの)未発達の状態にありました。少なくとも現代ほどは冠詞という文法項目が確立していなかったといえます。しかし、だからといってその分、現代よりも困っていたかというと、そういうわけでもありません。
英語をはじめとするヨーロッパの多くの言語には、冠詞という文法項目が存在します。しかし、いずれの言語でも最初から冠詞があったわけではなく、歴史を通じて徐々に発達させてきたのです。英語でいえば this や that のような指示詞がもととなり、それが定冠詞的な役割を担うようになってきた、という経緯です。
定冠詞には、様々な役割がありますが、とりわけ重要なのは既知の情報であることを示す役割です。これから提示しようとしている情報が聞き手にとって既知のものなのか未知のものなのかを標示してあげることは、コミュニケーション効率を考えると、重要なポイントとなります。聞き手にとって、既知を示す the が聞こえれば、記憶を探ることに集中できますし、未知を示す a(n) が聞こえれば、新情報を受け入れるための心の準備を始められます。このように既知と未知の区別がなされると、コミュニケーション上、便利で効果的です。ここに冠詞の存在意義があります。
しかし、既知と未知の区別は、冠詞以外の方法でも、いくらでも実現可能です。日本語では、冠詞に頼らずとも、たとえば助詞の「は」と「が」の使い分けによって、その区別を表わすことができます。「昔々あるところにおじいさんとおばあさん『が』いました。おじいさん『は』山へ芝刈りに、おばあさん『は』川へ洗濯にいきました。」では、第1文の『が』が a(n) のように未知を示す役割を、第2文の『は』が the のように既知を示す役割を果たしています。つまり、言語によって冠詞の使い分けを利用するか、助詞の使い分けを利用するかなど「手段」の違いこそありますが、情報の既知・未知を標示したいという「目的」は言語間で共有されているのです。その目的を達成するための手段として、必ずしも冠詞に頼る必要はありませんが、英語やヨーロッパの多くの言語は、歴史の過程で冠詞という手段を選んだということです。
では、なぜ英語(等の言語)は冠詞という手段を選んだかということですが、手近にその「種」があったからだと考えます。先にも述べたように this や that という指示詞があり、それが種となって、後の冠詞に連なるべく育ち発達していったものではないかと。他の手段でもよかったのでしょうが、手近にあった「種」に頼るのが自然だったのではないでしょうか。
英語母語話者は、外国語として日本語を学ぶ際に、「は」と「が」の使い分けに苦しむようです。ちょうど日本語母語話者が英語を学ぶ際に冠詞の使い分けに苦しむのと似たような状況です。もし英語母語話者に「どうして日本語には『は』と『が』の区別があるのでしょうか? なくても意味が通じるような気がします。この区別がないと困るケースはあるのでしょうか?」と尋ねられた場合、どのように答えられるでしょうか? 私だったら、今回の回答を逆向きにアレンジしつつ答えてみようかな、などと想像しています。
最後に「冠詞は言語史上淘汰されていったりするケースはないのでしょうか?」との質問ですが、冠詞が消えていった歴史上の事例があるかどうかは不勉強でわかりません。しかし、上記の通り冠詞は1つの手段にすぎないので、別の手段に乗り換える(そしてその結果として冠詞が消えていく)という事例があったとしても、私はまったく驚きません。