Q1.なぜ政治学をめぐっては、方法論をめぐって研究者間で対立があるのでしょうか?

別に、事例や歴史研究から何らかの理論的知見を提供する(しない場合もあるが)ことは、政治学の理論形成において不可欠だと思います(逆も然り)。また、具体的な分析方法を1つとっても、回帰分析や重回帰分析から得られた知見が、実は、歴史研究を行うための先駆け的議論となることも少なくないでしょう。しかし、政治科学研究者は、「何が政治学か」をめぐって鬱憤をTwitterで爆発させている傾向が最近あるように思います。個人的意見としては、90年代〜2000年代におけるアメリカ政治学の流行が、日本において誤った解釈・針小棒大化されたように見えます。先生のご意見を伺いたいです。

Q.2パワハラまがいの「ゴミ査読」は本当にあるのか?

まだ、質問者は駆け出しのペーペーのため無理解はあると思いますが、自分が過去受け取った15通くらいの査読レポートで「これは政治学じゃない」「手抜き」「素人調査」「見識不足」などの藁人形論法にすらなってない「ゴミ査読」には出会ったことすらありません。概して、建設的かつ、問題点がどこにあり、何をどう再調査・直す必要があり、どんな文献・知見を加えた検討を改めてしなければならないのか。1つ1つ、極めて具体的でした。私はこれを「神査読」と呼んでいます。例えを用いた理由説明ですが、「神査読」は刀の切れ味が優れている分、執筆者(執刀医)としては論文の縫合がやりやすいからです。質問に戻りますと、今もなお、パワハラまがいの「ゴミ査読」「書評」「学会等における嫌味の連発」などはあるのですか?だとしたら、公で名前を挙げて告発するべきだと思ったりもするわけですが、その点も含めてどう思っていますか?

Q1について 

方法論上の対立があるのは、政治学に限らず、経済学、社会学でも、どういうディシプリンでも存在していると思います。しかし、私からみれば、経済学や社会学でも方法論上の対立は本来は深刻だとは思いますが、あまりその争いが顕在化しないようにしているのかな、と思います。

なぜ政治学者では対立が顕在化するのか、理由はよくわかりませんが、twitterやる人(とくにヘビーにやる人)が多いからかもしれませんし、「政治」という紛争や正義に関わる素材を扱う学問だから、そういう学問の特性上、もともと議論好き、争い好き、正義を語るのが好きな人が多いから、なのかもしれません。

私は他のディシプリンの人と関わる機会も多い方の政治学者なのですが、経済学者や社会学者の人は実社会の論争的なテーマについて、考えが違う人の前では、あまり多くを語りたがろうとしない人が多い印象です。政治学者は学問上の論争を脇に置いたとしても、世の中のこととか、社会秩序について一家言もっていて、誰彼構わず語りたがる傾向が強いと思います。私はまさに典型だと思います。

白黒つけるような議論、価値観にかかわる議論をしたがらない傾向は一般的にも強いと思いますが、政治学者は「政治=価値対立」というドライな認識をもっており、異なる価値観を持つ人同士が社会や国家をいかに運営し共存していくか、という政治の技術を重要視している人が多いので、「考えが違って当たり前」「議論することで異なる他者との間に合意点をさぐるのが大事」という前提を受け入れる人が多いので、論争的なテーマに躊躇なく議論していく傾向があるのかな、それが時として軋轢を生むのかな、と思います。

きちんとした議論の作法に則って、誹謗中傷やハラスメントにつながらない限り、異質な他者同士の間で議論していくことは、本来は重要なことだと私は思います。方法論論争も、人格対立やハラスメントにならない限りは、むしろどんどんやっていった方が学問として健全という気がします。

「揉めるから語らないでおこう」という一見穏健な態度を取ることが「大人の知恵」ではなく「現状肯定」にしかならない、という側面があることも忘れてはならないと思います。政治学者の議論好きは、一見大人げなく映るかもしれませんが、それが社会の不条理をなくす第一歩につながることもある、という認識をもつのも大事だろうと考えています。

Q2について

「ゴミ査読」と呼ぶかどうかは別にして、まったくのナンセンスな査読に出会うことは、私の場合は何回かありました。理不尽な査読に直面した時はその都度、査読委員会には異議申し立ても行いましたし、それが受け入れられたこともありますし、学会の理事会まで行っても結局無視も同然の扱いをされた(あまりにもおかしな回答だったので、その学会は即時退会しました)こともあります。査読者も匿名で行われるので、名前を公にしての異議申し立てはできないですね。

査読というのは、そういうすれ違いが起こることは避けられないと思いますが、大事なのは査読委員会ないしエディター側が、きちんと査読者のクオリティコントロールをすること、誹謗中傷まがいのコメントの場合は適切に対処すること、無理難題のコメントの場合は「これには対応しなくてよい」と判断すること、だと思います。日本の政治学での査読では、査読委員会があまり介入せず、査読者の判断を尊重しすぎなのは大いに問題だと思っています。査読者も誤ることがあるという前提で、査読委員会は積極的に介入すべき時には介入した方がいいと思います。

また、最終的な掲載決定権限をもつ査読委員会のエディターに誰がつくのか、が極めて重要で、このポストに就く人の見識がおかしいと、査読者の選任、コメントへの対応、最終決定のすべてがおかしくなってしまうので、慎重に選ぶ必要があると思います。日本の政治学系の学会は、この査読委員会も1~2年の任期でどんどん入れ替わっていくため、時におかしな人選がされてしまう確率が高まっているように思います。もう少し中長期に信頼できるエディターを配置したほうがいいです。当然ながら、そのエディターには金銭的補償もすべきでしょう。

あとは、1つのジャーナルがダメだった時に、どれだけ代替となるジャーナルが存在するかも重要です。ジャーナルの競争性があったほうが、自然と市場原理で査読の質もあがります。海外でも理不尽な査読はごまんとあるでしょうけど、気にせず別のジャーナルに投稿できるし、理不尽査読ばかりやるジャーナルには原稿が集まらなくなります。日本の学会誌はあまりこの競争性がないので、投稿者は1つダメなら、他に出せるところがなくなってしまうことがありますし、査読者側も競争にさらされない分、緩くなってしまう部分はあるように感じます。

どういう査読に当たるかは運次第という部分もありますし、扱っているテーマにもよるのではないでしょうか。比較的参入している研究者が多いテーマでは、共通理解がある人が多いので、自然と良い査読が行われやすくなりますが、マイナーテーマですと、査読者の確保が難しくなり、やや専門を外れた人が査読する結果、おかしな査読になる可能性が高まると思います。この点でも、日本国内の研究者しか査読者プールがない日本の学会誌は、専門外の査読者に的外れなコメントをされる可能性が高い、と言えるでしょう。私が比較的おかしな査読をされた経験が多いのは、おそらくマイナーテーマを扱っているからだと思います。

2023/11/02投稿
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