まず僕は、質問者さんと全く同じ価値観を持っています。刺身よりも、火を通したり、酢締め、昆布締めなどを好みます。世の中にそういう人はごく稀にいます。しかしこれぞまさしく周縁の民です。
日本料理店の「持ち場」には、昔から純然たるヒエラルキーがありました。その頂点にあるのが「板場」であり、そこに立つのが「板前」です。そこには、煮物や焼物の担当を経て長年かけて登り詰めるのです。
日本料理には、素材にはなるべく手をかけずに食べることが理想、という世界にも稀な哲学があります。醤油という強力な調味料の助けを借りるとはいえ、切っただけで充分すぎるほどおいしい生魚という食材は、その頂点に君臨します。刺身を特別重視するという認識は、伝統的で強固なものなのです。
かつては、生で食べられる魚を入手することも、それを良い状態で保管することも、今よりずっと難しかった。反対に煮たり焼いたりする用の魚は、肉よりずっと安く、日常的なものでした。わざわざ外でお金を出すなら刺身を食べたい、というのは自然な感情です。新鮮な魚を得る事が比較的容易な海沿いの観光地では、ここぞとばかりにそれを求めるのも必然です。
ただし人間は生魚ばかりそうそう食べられるものでもないので、それ以外が脇を固める、そういう主従関係もはっきりしています。
現代では確かに、刺身用とそれ以外の魚の(価格)差は、かつてより確実に縮まってはいます。しかし価値観はしっかりと持ち越されているし、刺身がことさら特別なものではなくなったという幸福を、誰もが享受しているとも言えます。
そんな中で、価値観をいったんリセットし、フラットな状態で判断して初めて、質問者さんや僕のような周縁の価値観が生まれます。そしてその判断においては、「刺身はいつでもどこでもおいしいのが食べられるから、それ以外のものが余計に輝いて見える」という、判官贔屓、逆張り的な意識も(無意識的に)多少働きます。実に周縁の民らしい機序とも言えます。
店側に「思惑」が無いと言えば嘘になるでしょう。刺身が「楽」かと言えば、決してそんなことはありません。しかし刺身なら、8g×5(カン)の40gで1000円取れます。焼き魚はその倍くらいの量がないと格好が付きませんが、それを2000円で売ることは一気に難しくなります。最初から加熱用の少し安い魚を使うにしても、上に書いた通り、価格差は既に縮まっています。なので刺身としてなるべく高く販売し、売れ残りを「仕方なく」それ以外に回してロスを回避する、というルーティンは、オペレーションとしても確立されています。主従関係はここでもはっきりしているのです。
お店の人がアラなどをおいしく食べているのでは、というのは、ある程度その通りです。しかし中の人々もそれを別に「刺身よりおいしい」とも思っているとは限らないのもまた確かだと思います。
なので僕は仕事が和食メインだった頃、特別良いアラが出ると、こんなうまいものを賄いで食べ尽くすのも勿体無いと、中骨の食べやすいところだけを焼いてコースの途中でサービスとして出したりもしていましたが、ことさらそれが喜ばれるわけでもないことにも気付いて、いつしかやめてしまいました。