私が左派的な価値観から距離を置く決定的なきっかけになったのは、福島第一原発事故です。福島の人たちを差別するような風評加害が、まさかリベラル左派言論人から巻き起こされ、あのような惨憺たる事態を引き起こしたこと。それについて事故から何年が経ってもまったく反省も振り返りも行われなかったこと。いったいそのどこが「リベラル」であり、弱き人々の味方である「左派」なのか。いまだにこの怒りは消えていません。

とはいえこの問題は、お読みいただいた「当事者の時代」でも書いていますが、そもそも弱き少数派=マイノリティをどう扱うのかというマスコミの根深い病根が背景にあります。新聞記者時代、「マイノリティに寄り添った方が偉い」というようなおかしな風潮が社内にもあり、それに対して「いや、寄り添いも大事だけどもっと大事なのはファクトだろう」と反発を感じたことが幾度となくありました。この風潮とはいったい何だったのかを自分自身で突き止めるために書いたのが「当事者の時代」だったのです。この本を書いたことで、私は古いマスコミの世界とは決別したと自分自身で認識しています。

私は1970年代の高校生のころは小田実や高橋和巳、果てはマルクーゼなどの本を読みふけり、典型的な左翼少年でした。その思いは新聞記者になっても変わらなかったのですが、現実の事態と左派の言動が整合しなくなっていく21世紀の現実の中で、決別せざるを得なくなったということです。決別したならそれで放置しておけばいいじゃん、と思われるかもしれませんが、この古い70年代的な思想がいまだ新聞テレビには蔓延っていて、社会的にはマイノリティなのにやたらと影響力だけは大きいという厄介な状況が終わっていないのが問題だと考えています。

とはいえ私は保守や右派では決してありません。そもそも右派・左派という構図で現代社会を捉えることがもはや無理筋すぎるのであり、現代に合わせた政治の対立構図が必要だと考えています。少なくともいま戦わせるべき議論は、20世紀の古い価値観vs21世紀の現代の価値観という対立構図なのではないかと考えています。

5か月

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佐々木俊尚さんの過去の回答
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