チャーシューに関する質問は他にもいくつかいただいており、また自分もツイッターでは書けなかったこともあるので、ここでまとめて書いておこうと思います。なので長いです。全文公開のエッセイ回とお考えください笑

 

『チャーシューについて考える』

 

世の中には様々なスタイルのラーメンがありますが、その中の一群に、スープはちょっと素っ気ないんだけどデフォルトでチャーシューがたくさん載ってる、みたいなパターンがありますよね。竹岡式ラーメン及びその系譜が代表格といったところでしょうか。全くルーツが異なる鹿児島こむらさきもそうですし、喜多方ラーメンも割とそれ系だし、濃厚豚骨のイメージがある博多/長浜ラーメンにも結構そっち寄りのものがあります。

こういったラーメンのチャーシューは、形が不揃いだったり、細かめに刻まれていたり、ペラペラの薄切りだったりすることが普通です。つまりチャーシューはトッピングというより「パーツ」であり、麺と絡めて、もしくは口中調味的に、一緒に頬張ることが前提となっています。スープに特にインパクトが無くても、麺の存在感が薄くても、スープ・麺・チャーシューが一体となった時点でその味が完成する。それはどこか中国の(屋台的な?)麺料理にも通じるものがあります。

鹿児島こむらさきは戦後間もない頃の発祥ですが、おそらく「都会で流行ってるラーメンなるものを鹿児島でも初めてみよう」みたいなことだったんだろうと思います。でも実際そのラーメンというのがどういうものかはっきりとはわからない、だから調理は台湾人の料理人に任せた、でもその人も日本のラーメンがどういうものかはよくわかっていない……。こむらさきのラーメンは、豚や椎茸の薄濁りスープに無カンスイの蒸し麺、そこにたっぷりのキャベツと細切れのチャーシューがのっています。独特なのは、提供された時点でカエシは底に沈んだままであり、麺も具もスープも底から全体を自分で混ぜて完成するという点です。まさに中国の屋台の麺みたいでしょう?

竹岡式もそうですが、この種のラーメンは熱狂的なファンがいる一方で、ディスられる時は完膚なきまでにディスられます。レビューを低評価から見ると、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図。なぜかと言うと、それらは現代のラーメン(の評価)の文脈から大きく乖離しているからです。

先ずはスープを啜る、そして麺を手繰ってコシやスープとの絡みを確認する、チャーシューをひと齧りしたら目を瞑り、しばし沈思黙考……。そんなイマドキな食べ方では絶対にこの種のラーメンのおいしさはわかりません。麺はチャーシューと一緒にガバリと頬張りズビズバ吸い込み、そしてすかさず丼から直にスープをズズッと啜る。その三位一体こそが真価です。いつから麺にはコシが必須と勘違いしていた? 麺がスープを持ち上げないなら自分で吸い込めばいいではないか。

メインストリームのラーメンは、結局のところ、東京ラーメンのスタイルが(様々な他のスタイルも取り込みながら)進化していったものです。原初のスタイルはもちろん中国からもたらされました。その時のスープは豚ガラで塩味、肉は乗せたくても、コストの関係で具は当時から安かったメンマのみだったりもしたそうです。しかし当然そこからローカライズが進みます。臭い豚ガラの代わりに鶏ガラがメインとなり、煮干しや昆布も加わり、味付けは醤油に。そしてメンマだけではさすがに寂しいと、そこに他の具も加わっていったのですが、そこで取り入れられたのは蕎麦の発想です。ナルトやほうれん草や海苔が加わりました。おかめ蕎麦みたいなものです。おかめ蕎麦はナルトの他に白い蒲鉾も入りますが、ラーメンではそこがチャーシューです。おかめ蕎麦だと卵焼きや伊達巻きのところ、ラーメンはゆで卵。

種物の蕎麦からさらに出自を辿ると、それは碗盛に至ります。別々に調理された具材が碗の中で汁と共に集合する日本料理の一品。ラーメンはその末裔ということになります。碗盛ではひとつひとつの具材をそれぞれ味わいます。その一瞬の余白を埋めるのが汁です。混ぜて頬張るこむらさき的スタイルとは根本から異なります。

現代の碗盛であるところのラーメンは、その具材のそれぞれが別個に進化していきました。ゆで卵は半熟の味玉に進化し、海苔は溶けない海苔が開発され、ほうれん草は役目を終えて退役したり、コストを抑えた冷凍ほうれん草に置き換えられたり。そんな進化のひとつがレアチャーシューです。過去にも散々書いてきたのですが、この「レアチャーシュー」という命名が、僕は最初の盛大なボタンの掛け違いだったのではないかと思っています。レアと呼ぶから本当にレア(生)でいいと勘違いしてしまう人がごく一部ですが現れた。本来なら「ロゼチャーシュー」とでも呼ぶべきだったのではないかと思います。なのでここからは、あえて「レアチャーシュー」という言葉はなるべく使わず「ロゼチャーシュー」で行こうと思います。少々読みづらくなるかもしれませんがご容赦ください。

 

さて、全く別の角度からロゼチャーシューについて見ていきましょう。まずはラーメンとは直接関係の無い、あくまで個人的な体験の話から始まります。

僕が初めてロゼ色の豚肉を食べたのは、30年近く前でしょうか、最初はフレンチのメイン料理としてでした。正直、最初は少し不安も感じなかったわけではありません。当時は、豚肉は完全に色が変わるまで加熱しなければいけないというのが常識でした。しかし僕は、こんな立派な店がイケナイ事をするはずはなかろうと、存外素直にそれを受け入れました。そしてそれは、それまで知らなかった素晴らしい味わいでした。後に自分でもそういう料理を作るようになり、豚肉は安全基準をしっかり満たしつつロゼ色に仕上げることは充分可能ということを身をもって知り、微かな不安も一掃されました。

当時はいわゆるビストロブームみたいなこともあり、それまであくまで牛肉が中心だったフレンチの世界でも、むしろ豚肉がデフォになりつつありました。プリフィックスであえて牛肉をメインに選ぶときは1000円程度の差額が必要、みたいな時代になったわけです。ミディアムレアのステーキを食べる機会はいくらでもあるので、フレンチでは豚、あるいはラムや鴨を選び、そのどれもが見事なロゼで焼かれる、それがとにかく楽しみでした。

 

ちょっとこの先をどう書き進めようか悩んでいます。このことは要点をかいつまんでツイッター(誰がXなどと呼んでやるものか)でも書こうと一度は思ったのですが、昨今の弾幕シューのごときツイッターでは、自機の当たり判定がデカすぎて被弾・炎上待ったなしだと判断して取りやめました。僕が言いたいのは、僕自身も含め少なからぬ人々が人生のどこかで享受した、専門レストランのロゼに火入れされた見事な豚肉の感動を、極めて安価かつカジュアルかつ敷居も低く提供してくれているのがラーメン屋さんのロゼチャーシューである、ということなのです。

この言質の危うさがお分かりでしょうか。これはどんなに慎重に言葉を選んでも、

「カジュアルフレンチにすら行けない哀れな貧乏人が有り難がってるのがラーメン屋のレアチャーシューってことだな」

と読み取る人々が、拡散のどこかの時点で現れるのは確実です。フレンチに「行かない方」の人々が(なぜか)憎悪を募らせるパターンと、「行く方」の人がこれを悪用して(不毛かつ悪趣味な)マウンティングを始めるパターン、その両方がリサイクルエネルギーとなってサステナブルに燃え続けること待ったなし。

もちろんそれは僕の本意ではありません。どんな店に行って何を食べるかは、個人の趣味でしかありません。フレンチに行く人も行かない人もいるのは、ハードコアパンクのライブに行く人もいれば行かない人もいるのと一緒です。なぜライブハウスのチケットに課金しても何も言われないのに、レストランになけなしの可処分所得を注ぎ込む食の民が憎悪に晒されねばならんのだ。

 

落ち着いてもう一度最初の話に戻ります。

東海林さだお氏はかつて、「ラーメンとは一杯のフルコースである」と喝破しました。そこには最初から前菜もスープもメインもサラダも含まれている、ということです。これは名作映画『タンポポ』のエピソードのひとつにもなりました。これが面白かったのは、少なくとも当時、ラーメンとはフレンチなどのコース料理の完全に対極にある極めて庶民的な料理だったからに他なりません。強烈なギャップがおかしみを誘ったわけです。さすがショージ君御大。

今となっては微妙にそのおかしみは薄れています。もちろん今でもラーメンは庶民の味方ですが、同時に、高級レストランとも渡り合える存在に少し近づきつつもあるからです。ロゼチャーシューはフレンチのメインコースと張り合えるとまで言うと言い過ぎかもしれませんが、1000円かそこらでそれと同じロジックの料理を味わえるのは確かです。スープはこの場合、潤沢にフォンを使用したソースに当たります。なんならラーメンスープの方が複雑で重層的だったりします。

かつてのラーメンにおいて、チャーシューを始めとする具は、麺ばかりを啜る味気無さを回避し、最終的に満足感を少しでも高める目的で配置されました。しかし現代のラーメンでは、それはもう少し積極的な意味を持っています。ロゼチャーシューがラーメンに合うのかどうか、麺と一緒に頬張っておいしいか、そういうことはもはやどうでもいいのです。ロゼチャーシュー(と、そのソースとしてのスープ)がおいしければそれでいい。それはもはや麺の従属物ではないのです。竹岡ラーメンなどとは違い、チャーシューがスープの物足りなさを補完する必要もありません。スープはスープだけで「仕上がっている」からです。最初の質問に即して言えば、燻製チャーシューも全く位相は同じです。

 

ただしあくまで僕自身の個人的な価値観だけで言うと、ロゼチャーシューはそんなに好きじゃありません。もしその部位がヒレかモモだったら、もっと好きになれるかもなあとも思います。一般的にロゼチャーシューでは肩ロースが使われますが、これはこの部位が同じ温度×時間条件で最も「生っぽい食感」に仕上がるからだと思います。しかし焼きを入れない低温調理オンリーの肩ロースは、肉そのものの品質にもよりますが、レバーのような匂いがこもりがちです。もちろんそれを風味として好む人や特に気に留めない人もいるのは分かっているので、これはあくまで個人的な好みの問題です。醤油系の味をしっかり入れたら匂いは緩和されそうですが、それをするとphで色が灰褐色にくすんでしまうので、お店や愛好家としてはそれも避けたいところでしょう。

と言いますかそもそも、スープがスープで仕上がっている現代のラーメンでは、チャーシューそのものが無くてもいいと感じます。蕎麦を食べるなら「もり」か「かけ」がいい、というのと同じ感覚なのかもしれません。つまり世間はどうあれ、僕はラーメンにフルコース化を求めていないということです。それはあくまでおやつや「むしやしない」の範疇にとどまっていてほしい。

無論それはあくまで周縁からのおそらく叶うことのない身勝手な願望なのですが、ラーメン屋さんにチャーシュー無し・麺半分のメニューがあればいいのになあ、といつも思っています。更にそば前ならぬラー前が充実していれば言うこと無し。つまりラーメンそのもののフルコース化ではなく、フルコースの最後にラーメン、という形式で、ラーメン愛好家が求めるものとどんどんかけ離れていきますね。これが周縁だ。

 

僕は家系ラーメンの燻製チャーシューは文句無しに大好きなのですが、先日これをあくまで「肉料理」として楽しみたいという思いつきに駆られました。

お寿司屋さんで軽くビールで前菜をつまんでからラーメン屋さんに移動し、麺半分チャーシュー増量をビールと共にオーダー。これはなかなか素敵でしたが、チャーシューを食べ切る頃にはスープはすっかり冷め、麺は伸び切っていました。熱々にはこだわらないし、家系ラーメンの麺が柔らかくても何の問題もありませんが、さすがにこれはちょっと度を超えてしまいました。

こうなるとやはり、ラーメンのコース化待った無しだなと思いました。チャーシューは皿チャーシューでスープが薄く張られて出てくる。食べ終えてその後に素ラーメンです。前菜も充実していれば店一軒で済ますことができます。お店としても1000円の壁どころか一気に2000円の壁も余裕で突破できるではないか。一瞬そう思いましたが、人はそういうのが嫌だからラーメンを愛するという側面も大きいよなと思い直しました。

結局ロゼチャーシューも燻製チャーシューも、ラーメンがラーメンとしてのアイデンティティを保ったままでの進化が極まった、現時点での最適解なのでしょう。それらは別にラーメンと合わなくてもいい。むしろ合わないレベルで完成しているからこそ価値があると考えるべきなんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

8か月

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