多様性は人間社会の存続のために必要、だから弱者包摂も大事……というのはよく言われるところです。わたしもこれに同意しますが、しかしこの論は全体最適化のマクロ視点であって、ひとりひとりのミクロの視点を皮膚感覚的に納得させてくれるものでもありません。
だからここではミクロの視点で語りましょう。わたしが弱者に対して厳しい目を向けることができないのは、「自分もそうなったかもしれないし、今後もそうなるかもしれない」という不安に常に突き動かされているからです。これを「入れ替わり可能性」とわたしは呼んでいます。
1949年という終戦間もないころに公開された黒澤明監督の「野良犬」という映画があります。三船敏郎演じる若い刑事がバスの中で拳銃を盗まれ、犯人を捜して東京の街を歩き回るという物語です。犯人の姉にたどり着いて話を聞くと「あの子は復員してからすっかり人間が変わっちまって…。復員の時に汽車の中で全財産のリュックを盗まれて、それからグレだしたんですよ」という。これを聞いて主人公はショックを受けます。彼自身も同じ復員兵で、やはりリュックを盗まれて絶望的な気持ちになった経験があるからです。
主人公は同行してくれていた先輩刑事に語ります。「ひどく無茶な毒々しい気持ちになりましてね。あの時だったら強盗ぐらい平気でやれたでしょう。でも、ここが危ない曲がり角だと思って、僕は逆のコースを選んで、いまの仕事を志願したんです」。そしてまだ見ぬ犯人について、こう言うのです。「僕は、悪いやつは悪いというようには考えられないんですよ。長い間戦争に行ってるあいだに、人間ってやつがごく簡単な理由でけだものになるのを、何回も見てきたもんですから」
この映画を30代になってから初見して、わたしは「これは自分もそうだ」と思いました。もちろんわたしは復員兵じゃありませんしリュックを盗まれた経験もありませんが、わりに悲惨な子ども時代を経験しています。父親が知人の借金の肩代わりをした揚げ句に夜逃げし、さらには父親の周辺の人たちがひとり暮らしをしていたわたしのところに来ては、父親へのひどい中傷を残していきました。「親切な良いおじさん」だと思っていた人たちが豹変するのを目の当たりにしてしまったのです。
多感な思春期にこういう経験をして、「人間はつねに善と悪の間で入れ替わる」「どんなにいい人だって、環境が変わればつねに闇堕ちする可能性がある」などということを心に銘じるようになりました。だから、卑怯で小ずるい人間だったり、他責思考にはまってしまうような人を黙殺できないと思うようになったのです。人間は経済問題などで転落し、闇堕ちすれば容易に人間性もダメになっていくのです。もともとダメな人がいるのではなく、環境が人をダメにするのです。
わたしは運が良かったので、そうはなりませんでした。小中学校と悲惨ないじめを経験しましたが、地元の優秀な進学校に進むことができて、人間関係が一変しました。大学ではドロップアウトしかけましたが、新聞社に滑り込むことができてかろうじて真っ当な社会人になることができました。40歳を過ぎてフリーランスになった時も、偶然にも出版不況がやってくる直前の時期で、無事に独立することができました。いずれもただ運が良かっただけです。ちょっとでも運が悪いことが重なっていれば、まったく違う人生になっていたことでしょう。
これがわたしが弱者包摂をしなければならないと考えている理由です。