ラテン語の勉強法ですね。それにはすぐにお答えします。語学が好きで文法を覚えるのを苦にしない語学好きの人がいます。そういう人は例外なので、放っておきます。ラテン語をマスターするには、文法書を買ってきて、それを制覇するしかないのですが、ほとんどの場合、挫折します。続かないのです。たとえば、松平・国原『新ラテン文法』(東洋出版)はお勧めですが、練習問題に答えがないので進む元気が出ない、ということがあります。そして、名詞や動詞の活用や変化がたくさんあって、気力が失われます。覚えても覚えてもたくさんの学習事項が出てきて、そのうちに飽きてきて、目的がないと、かならず途中で止めてしまいます。私の場合は、ライプニッツを読むという目的があって、読めないうちから分からない文法事項が出てきても、辞書を引いて、意味を推理するということをしていました。文法を追いかけるというよりも、文法を探していました。「こういう意味に違いない、ではどういう文法があればそういう意味になるのか」というように考えていました。文法は押し付けられるものというよりも、私には探し求められるものとしてありました。ですから、理解できるための文法に出会うと、「なるほどありがとう」と感謝していました。

 文法はいやいや押し付けられるものというよりも、意味を見つけるための「鍵」であって、その鍵を探すために文法書を読みました。順番通りというよりも、必要な文法を探して、意味に見合う文法を探したのです。

 スコラ哲学のラテン語読むために必要な文法は限られていて、哲学のラテン語を読みながら、必要な文法だけを覚えるという、手抜きの楽なラテン文法学習法をたどってきました。

 でも、文法書は最後まで一度は目を通すべきです。文法書はつまらないので、大学にラテン語入門があったら歯でしがみついても続けるか、アテネフランセや上智大学(いろいろあると思います)かのラテン語講座に出て、習うのがよいでしょう。一人では続きませんから。

 よほど読みたい、読むべきラテン語が目の前にないかぎり、朝から晩までラテン語を学ぶ気力はわきません。私の場合は、目の前にあって、読めなくてもすぐに読む必要があったので、読めなくても読めなければならない、いわゆる「なすべし、ゆえになしあたう」という原則に後押ししてもらいました。

 大学や語学講座ラテン語を学ぶ機会は、大学生でもそれほど楽に手にできるわけではありませんし、東京にいても語学講座に通う条件にある人は少ないでしょう。ですから、一人で文法書で学ぶしかないわけです。手段を問わないので、文法書を最後まで学び、ラテン語を読み始める、それしかラテン語を読めるようになる道はありません。

 少し役に立ちたいと私もシラスや朝日カルチャーセンターでラテン語の講座を開いていますが、文法書を講義しても、練習問題を苦しみながら解いていかないと身につかないので、その訓練の場は別に必要です。

 このように正攻法でやると、5年たってもラテン語テキストにたどり着かないので、比較的楽なラテン語テキストを、馬の鼻先のニンジンよろしく、すこし読みながら、文法を先取りして、「こういう文法が分かれば読める」という予想地図を踏まえて、オン・ザ・ジョブ・トレーニング的に学ぶ方法を少し取り入れています。

ラテン語は時代や分野(哲学なのか法学なのか魔術なのか植物学なのか)でずいぶん変わりますから、何を読みたいかによって学ぶべき文法も変わってきますし、そのへんの細かいところは先生について習うしかありません。といって、ラテン語の先生はどこにいるんだ?という大問題があります。近くで探すしかないのですが。

私の場合は、先生はいませんでした。ライプニッツやスコトゥスを読んでいるうちに、必要な文法を探しだして覚えていったというのが本当のことなのです。

2023/07/06投稿
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