わたしが子ども時代の過酷な環境でも何とか生きながらえて来れたのは、自分でも意識しないまま「鈍感力」を発揮してきたからだと、今になって過去をふりかえって感じています。
家族も含め、他人が自分に悪意を持っているのだと感じると、ただ辛くなるだけ。だったら最初から「この人は何を考えているのだろう。ぼくのことをどう思っているのだろう」と推測などしない方がいい。「この人は自分にはいっさい関心ないし、自分もこの人に関心ない」と割り切ることで、悪意の存在を視界から消し去っていたのです。
それに慣れてしまうと、どんなに悪意を向けられても、よほどの剥き出しの悪意でもない限り、その悪意には気づきません。最近のSNSでは剥き出しの悪意をクソリプでぶつけてくる人たちもいて、それらの悪意は意識しないわけにはいきませんが、SNSのような剥き出しの悪意って実社会にはあまり存在しません。たいていの場合は、悪意をやんわりとオブラートで包んで投げつけてくる。でもオブラートの中身にこちらが気づかなければ、それは悪意としては認識されないのです。
そうやってとにかく外界をシャットアウトし、そして自分自身の内面は、たくさんの読書で得られる内なる世界にひたすら浸ることでセルフケアし、自己完結することによって維持してきたのです。これはその当時は気づかなかったのですが、後になって子ども時代から思春期にいたる自分自身の思考を振り返り分析することによって、ようやく自分自身でも気づいたことでした。
そういう無理なマインドを維持すればいずれは壊れてしまいそうですが、わたしには書籍という強い味方がありました。本の世界に耽溺し、そこでただ耽溺するだけでなく、自分自身の思考や情感を磨くことによって、自分ただ一人で成長し生きてきたのだと今でも自分自身を振り返って考えています。
では近年のSNSにおける、剥き出しのクソリプ悪意にはどう向き合えばいいのか。さすがに「そこには悪意は存在しない」と捉えるのは無理です。いっぽうで最近はリーディングスキル(国語読解力)の問題や、民主主義における異様な民意の噴出をどうするか問題などが議論されるようになってきました。つまり、以前だったら気づかれなかった「愚かな人々」の「愚かな意見」が可視化されるようになったのが、現代のSNSの大きな特徴のひとつだと考えています。
これは民主主義の限界であるのと同時に、今後の民主主義をどう維持していくべきかという議論の可能性をも示唆しています。このようにして「悪意」をわたし個人は民主主義の公共性という議論のテーマに包含することによって、個別具体的なひとつひとつの悪意はまあ無視していいかな、という意識に持っていくことにある程度は成功しています。
悪意剥き出しのクソリプをぶつけられても「こういう人の存在が可視化する直接民主主義的な時代をわれわれはどうすればいいのだ……?」とメタ的な思考に持っていくことによって、とりあえず目の前の悪意はどうでも良くなるということですね。
まあ悪意のクソリプを投げてくる愚かな人々というのは、決していなくはなりませんから。彼らは突如として現代に登場してきたわけでもなく、ネットが普及する以前は居酒屋の曇ったテレビに怒りをぶつけていたような人たちであり、いまも昔もそのありようは変わらないのでは亡いかと思います。