同嗜好の人々との共通認識を楽しむ、というのは、酒場に限らず飲食店を楽しむ上でとても大事な要素だと思います。
個性的すぎて人を選ぶような店が嬉しいのは、そこを選ぶような周縁の民たる自分が、社会の少数派であるその他の人々との連帯感を感じることができるからでもあります。だからと言ってそういう店で他のお客さんとコミュニケーションを取りたいかと言われれば全くそんなことはないのですが、ただ皆が内心で「いいよね」「うん、いいよね」と、同じ気持ちで繋がるのは嬉しい。
老舗であれば、時を超えてそれが起こるというエキサイティングな体験ができます。自分が生まれる前に生きていた人々と同じことを追体験して、同じ喜びを得るのは、ひとときだけ違う人生を生きるようなものです。
ガチの外国料理だと、今度は地理的な壁を超えてそれが起こります。例えばインド料理なら、インドの人々と食を通じて得る喜びを共有し、もし自分がインドで生まれていたらという架空の人生を(いいとこ取りのごく一部ですが)擬似体験できる。
赤星信仰的なものは、言わばバーチャルなサークル活動のような物だと思います。「酒場を愛する我々」という心理的な結びつきを更に強固にするために、あえて「赤星好き」という条件を定めて、(サークル的に言うならばメンバーを限定することで)濃い繋がりを作る。良くも悪くもそこには排他的な要素も生まれるから、それが質問者さんの心をざわつかせるのでしょう。赤星を愛する我々こそが真の酒場好きである、みたいな「サークル乗り」を少しでも感じ取ってしまうと、ドン引き不可避ですからね。
せんべろ愛好みたいなのもやはりこれと似ています。本来なら、近所に酒場があった、安くてツマミも悪くなかった、これからも通おう、となるべき対象の店にあちこち、電車に乗って「わざわざ」行く。これもまたバーチャルなサークル活動です。わざわざあちこち行くことでメンバーの活動領域が重なっていく、時間差例会のようなものでしょうか。
これもまた滑稽と言えば滑稽なのかもしれませんが、それを否定はできません。僕自身、前半に書いたように、食を通じて何とか世界と繋がっていられるわけで、たぶん結局は同じようなことをやってきたはずだからです。
排他性も本末転倒な行動も、大袈裟に言えば現代において人々が心のつながりを得るための必要悪なのかもしれません。