「物事に真剣な人」

スポーツや勉強、仕事、趣味のことでも、「真剣に向き合って、自分が持てる力を最大限発揮し、常にアップデートや考えることを欠かさず取り組んでいる人」はとても実力があるし素敵だと思います。そういう人の傍にいると、自分も気が引き締まるし、取り組み方や考え方も勉強になることばかりです。

しかし私はときどき、そういった人に「怖さ」や「圧迫感」を感じることがあります。

もちろんいつも四六時中ではないです。

そういう人はその取り組んでいる物事に対しては真剣であり本気であり、それゆえに時に厳しい言葉を聞くこともあります。

自分でも「それは当然だな」と思います。その反面、「自分はここまで真剣になれていない、情けないな」とか、「この厳しさに、ずっと向き合い続けられるだろうか、怖いな」ということも感情としてあります(そういうのはなるべく表に出さないですが、それとても相手は分かっているかも知れません)。

ときどきその「真剣さ」や「厳しさ」に怖気づき、逃げ出したい衝動に駆られることもあります。

しかしおかしい話です、別に嫌なことをされたわけでもなく、むしろとても勉強になる有益な話や取り組み方を直に学ぶことが出来るのですから、ありがたい環境にいると思います。

自分の様に、「人の真剣さやそれ故の厳しさ」に、怖さや怖気づきそうになることは、他の人もままることでしょうか?

こうした恐怖感は、そのうち慣れていくものでしょうか?

自分が出来ることとしてひとまず私は、なるべく感情を切り離して、そのときに教えてもらった話の内容を書き留めて自分の感じたことも合わせて記録するようにしています。

いい質問ですね!

ではここで「真剣さ」について考えてみましょう。

私が回答に使う分野は心理学、歴史学(遊戯史、庶民史)、民俗学です。

まず心理学。

さて、質問者さんは真剣が怖くないのでしょうか。

いえいえ、真剣な態度とかの真剣ではなく文字通りの真剣、刃物のことです。

これは流石に誰でも怖いと思います。

さて、この偶然の一致は言葉が普及していく過程で「似ている」と思われたのでそうなったのでしょう。

「刃物の真剣にも通ずる態度」、これが怖くない訳がありません。

実際に怖いことになった事例は心理学者河合隼雄が記録しています。

https://www.iwanami.co.jp/book/b255851.html

ユング心理学入門 - 岩波書店

日本で最初のユング心理学に関する本格的入門書.著者の処女作でもあり,河合心理学の出発点がわかる本.

www.iwanami.co.jp

患者に社長さんがいました。

この人はいつも真面目で(つまり真剣で)、遊びというものをほとんどしなかった人だそうです。

彼の印刷業は好調でしたが、ある時社長は子どものころの夢、落書きが好きだったことを思い出しました。

そして”常に真剣だった社長”はこの落書きが遊びのような思いつきだと思えず、

真剣に落書きデザインの服が売れると思い込んでしまいました。

この落書きデザインの服は当然売れなかったのですが、社長は会社が傾いてもこの「間違い」を認識できませんでした。

心理学的にはこう説明されます。社長はとても意識が強い人で、遊びや無駄といった無意識の働きを抑えてきました。

しかしなんでもずっと抑えている訳にはいきません。普通の人なら遊んで発散する「それ」が意識の中に逆流したのだそうです。まさしく、社長は区別というものができなくなったのでした。

さて民俗学。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089298/

『日本の歴史をよみなおす(全)』網野 善彦|筑摩書房

筑摩書房『日本の歴史をよみなおす(全)』の書誌情報

www.chikumashobo.co.jp

これによく似ているのが祭りの仕組みと呼ばれるものです。

祭りは普段と違います。普段は真剣な人も祭りの時は不真面目なってよいのです。

それどころか、祭りとはむしろ意図的に普段と逆をするのが重要なのだそうです。

普段は真剣でなければ仕事が上手くいきません。”だから”祭りの時は不真面目になります。

普段は決まりを守らねばなりません。”だから”祭りの時はみな規則を破ります。

こうした規則の違反、不真面目が日常で暴発するのはよろしくありません。

なので「あえて決まりを破り、不真面目になる日」を作ることで、

不真面目になりたい欲を満足させるのが祭りなのだ……というのが祭り、

いわゆるケの日(日常)とハレの日(祭り)の説明です。

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以上のお話を考えると、質問者さんが真剣さに感じた怖さと似たものとして2つのものが挙げられますね。

1.心理学の視点。常に真剣でありすぎると、真剣と不真面目の境があやしくなる

2.歴史学、民俗学の視点。人間はたまに馬鹿をやらないと「不真面目」が暴発する。だから適度に馬鹿なふりを(祭りを)してきた

さて、これをまとめた英語の格言がございます。

All work and no play makes Jack a dull boy.

「もしジャックが勉強ばかりして全く遊ばないなら、ジャックは馬鹿になる」が翻訳でしょうか。

最後にもう一つ。そもそも論をしてみましょう。

しかし面白いそもそも論です。分野はおそらく哲学。語り部はパスカルです。

https://www.chuko.co.jp/bunko/2018/07/206621.html

パンセ -パスカル 著 前田陽一/由木康 訳|中公文庫|中央公論新社

時代を超えて現代人の生き方に迫る、鮮烈な人間探究の記録。パスカル研究の最高権威による全訳。年譜、索引付き。〈巻末エッセイ〉小林秀雄

www.chuko.co.jp

「人間は考える葦である」で有名なパスカルは趣味について実に興味深い指摘をしています。

パスカルは趣味とは「人間がただじっとしているのに耐えられずにするもの」であり、

「熱中し、自分の境遇にあれこれ思いを巡らせないことが趣味の要点」だと書いています。

質問者さんは趣味やスポーツを範疇にいれているのでそれでいきましょう。

たとえば世界でとても足が早いのはウサイン・ボルトですが、

そのウサイン・ボルトよりも自動車や飛行機は「足」が早いでしょう。

なのに人間はなぜか足の速さを競います。なぜか。それが熱中できることだからです。

もしウサイン・ボルトに自分で走るのを禁じて、自動車で移動して”あげたら”、彼は大いに不満を持つことでしょう。マラソン選手なら誰でも走りたいはずです。

しかしこのたとえのように走りたいのは「移動したい」のではないのですね。なんだか不思議なことになりました。

「誰よりも早く走りたい」ことは「自動車で移動すること」ではないのでしょうか?

パスカルはこれを賭け事が好きな人と掛け金で説明しています。

もし賭けが好きな人に賭けを禁じ、ただあたったはずのお金を延々配当しても、この人は不幸になるだろうと

そう、なぜなら賭けが好きな人は賭ける前の準備、賭けている最中の興奮、熱中を味わいたいのであって、

「結果であるお金がほしいわけではない」からです。

真剣さに話を戻せば、真剣さは多くの場合熱中することを指します。

私がさっき書いたような「自分で走るより車で移動した方が早い」という人は全く真剣ではありません。

真剣さとは、熱中とは「規範やルールに強く縛られること」であり、またそれを疑わないことなのです。

そうした「余計な思考」をしないから真剣に切実に、日々のトレーニングを続けられます。

余計な思考をする人は車で移動していることでしょう。

さて、このルールに強く縛られることが質問者さんがいう怖さ、圧迫感なのではないのでしょうか。

真剣さはしばしば、人間に対し狭すぎるのです。

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こうした真剣さと不真面目さの分かれ目はゲームの遊び方でも知ることができます。

将棋やチェスのような歴史の長いゲームはルールがしっかりしています。

そしてそれぞれのルールは定着して最低200年は経っていますが、

”そのルールの枠の中でも”未だに新しい戦法が発見されています。これはゲームの真剣な側面ですね。

他方、こうした真剣な遊び方を嫌い、変則ルールを遊びたがる人々が将棋の歴史の本には記録されています。

いわくこうした人々は「決まったルールで遊ぶのでは退屈してしまうので、ルールを作る」というのです。

ここでも真剣な人はルールという枠の中で頑張り、不真面目な人は枠を作る側に回るのは面白いことです。

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真剣であることはそれだけで良いことではありません。

うがった見方をするなら「わざわざ枠の中に囚われている生き方」なのですから。

むしろ枠を作ったり行き来する方が自由で楽だと言われてみれば、一面ではそうでしょう。

過度に真剣な人から逃げ出したくなることがあるとすれば-これもご質問にありますね-、

やはりその枠の狭さを自覚したからではないでしょうか。

11日

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