焼きそばパンについてのイナダさんのスタンスを教えてください。

私は30代のサラリーマンで、朝ご飯をコンビニのパンやおにぎりで済ませることが多いのですが、パン売り場を見るたびに焼きそばパンに惹かれてしまいます。しかし、どうしても朝に炭水化物in炭水化物はイケナイ気がしてこれまで一度も買ったことがありません。

最後に焼きそばパンを食べたのは高校時代の部活帰りです。当時と比べて、きっとソースの味も変化してるんだろうな。麺も美味しくなってるのかな。など想像しつつもどうしても買えないのです。

土日に食べればと思われるかもしれませんが、土日は自炊のパスタを食べることが多いので麺類が続くのを避けてやはり食べられません。

私にとって、思い焦がれながらもどうしても辿り着けない存在が焼きそばパンなのです。

イナダさんにとっての焼きそばパンはどんな存在でしょうか?教えてもらえると私のモヤモヤも少し成仏できるかもしれません。よろしくお願いします。

おそらく質問者さんは、焼きそばパンに思い焦がれてなんかいません。本当に思い焦がれていたらたかだか一食分の糖質やカロリーなど気にするはずはありませんし、麺が被ることを厭ったりもしません。

焼きそばパンは常に質問者さんの手の届くところにいます。しかしそれが選択されることはついぞ無いわけです。毎回予選落ちです。それは言うなればラブソングにおける「いつでもそばにいてくれたね」「失って初めてわかる」みたいな歌詞と同種のものです。焼きそばパンの気持ちになって有り体に言いますと、「調子いいこと言ってんじゃねえよ」です。

しかし気持ちはわからないわけではありません。人は往々にしてそれを恋と勘違いするのです。

 

かつて一時期、ツイッターに頻出する「念願の〇〇!」が妙に気になったことがあります。〇〇にはお店の名前が入ります。〇〇はほとんどの場合、予約困難点とか高級店とかではなく、行こうと思ったらいつでも行けるお店です。ツイートを遡ってみると、普通に投稿者さんの行動圏内にあります。

最初は訳がわからず一々気にしていましたが、そのうちそれは、かつて流行った「〇〇なう」と同様の定型句に過ぎないのだと気付きました。それがわかった上であえて言うと、そこで「念願の」なんていう言葉を使うのはちょっと雑だと思います。もっと言うとそのお店やファンに対して失礼。

 

僕にとっての焼きそばパンは、基本的には予選にも至らない存在です。特に一生食べなくても構いません。ただしデイリーヤマザキでラップにくるまれて平台に置かれていると、ちょっとだけ気になることはあります。しかしその恋はマヤカシであることを僕は知っています。「デイリーヤマザキのラップにくるまれた調理パンマジック」とでも言いましょうか。

僕にとって質問者さんにとっての焼きそばパンに相当するものは、「蕎麦屋の丼物」かもしれません。いつも目にしてちょっと惹かれるものの、その度に予選落ちです。ただしたまに予選通過することもあります。最近では、とある老舗有名蕎麦屋さんの天丼。それは実に良いものでした。ですが、今後繰り返し食べるかと言われたら、やっぱりその対象ではないとも思いました。どちらかと言うと「実績解除」「憑き物が落ちた」という感覚です。東海林さだお先生や池波正太郎先生も食べたそれをやっと食べた、みたいな。

質問者さんも、とっとと焼きそばパンを実績解除してください。そして真実の恋を見つけてください。

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